フランクフルト学派とウォーキズム/「日本のクラシック音楽は歪んでいる」/書店の「棚」の作り方/批評ということ
昨日は10時30過ぎの特急で帰京。雨が降り、少し風もあった。朝ブログを書いたり、出る前にはワンピ―スのアニメも見られたので、やはりこのくらいの時間の出発が楽だなと思う。電車の中ではジャンププラスの「ふつうの軽音部」と「フランクフルト学派」を読んでいた。
フランクフルト学派の批判理論について読んでいたが、これは言説のポリコレなどの言説のある種の祖のようなものだなと思う。「社会に矛盾があるから、その矛盾を乗り越えるための理論であり、実践が伴う」というのは一見正しいように見えるが、その「社会の矛盾を誰が認定するのか」というところに権力関係が生じるわけで、それは長い間保守的な伝統権力が力を握ってきたから大きな問題にはならなかったが、20世紀後半のどこかで逆転が生じ、ポリティカルコレクトネスやフェミニズム、環境運動家や性的少数者の運動など、つまりは「ウォーキズム」が権威・権力を握り始めると、「社会の矛盾を認定することで権力を握る」多くの団体が跋扈するようになり、逆転現象が起きている。アメリカのような宗教的保守の力が強いところでも彼らと妥協することでそれらが権力を握るようになってきたが、もともとそういう棲み分けが強くない日本や各国では混乱が起こっているということなのだと思う。
ヨーロッパや日本における保守はもともと左右の過激派のバランスを取ることで多数派を占めてきたものであり、アメリカのような強い分裂とは在り方が違ったが、現在は左右の過激派の力が強くなって勢力が相対的に縮小していることは懸念材料ではある。
右派過激派に対しては従来からさまざまな研究や批判がなされているけれども、左派、特に破壊的・革命的政治活動を主としたレーニン主義系・ソ連系の旧左翼についてはともかく、いわば文化的左翼の系統は西欧のマルクス主義を起源としている、というか方法論を使っているものが多いということが最近理解できてきたので、そのあたりを批判的に理解して行かないといけないと思っている。
社会の矛盾を解決すれば社会が良くなるという考え方には、そこを変えたら社会が壊れるかも知れないという問題意識が欠落している。そういう意味で社会の強度を盲目的に絶対視しているわけで、このあたりは特に危ないし、その国の社会を弱めようという外国勢力にも利用されやすい。新自由主義的グローバリズムもそれに似たようなもので、いわゆる経済敗戦というのはその形でもたらされたが、現在は政治思想的な意味で同じく危機に陥っている感じがする。ここで持ちこたえないと本当に危ないと思う。
新宿につくのがお昼過ぎになるので駅前のスーパーで天丼を買って11時半ごろに電車の中で昼食を済ませた。考えてみれば安いしそれなりに美味しいし、地元の駅弁が無くなった現在としては正解だったかなと思う。
東京駅で降りて丸善に行き、気になっていた森本恭正「日本のクラシック音楽は歪んでいる」(光文社新書、2024)を買ったが、他に店頭で見て気になった養老孟司・茂木健一郎・東浩紀「日本の歪み」(講談社現代新書、2023)、山口亮子「日本一の農業県はどこか」(新潮新書、2024)を買った。「日本の歪み」はこの三人の取り合わせがわりと意表をついていたのでどういうことを話しているか、スタンスも世代も違う三人の話というのが面白そうだと思ったこと、「日本一の農業県はどこか」については間違って伝えられる(おそらくは半ば意図的に)ことの多い日本の農業の現状について、久しぶりに少しは読まないといけないなと思ったことがある。農業生産、特に食糧自給率についてはカロリーベースで語られることが多いが、生産額ベースで言えば実は日本は非常に自給率が高いということは以前何かで読んで驚いたのだが、「現在成功している農業」について読んでみるのは大事かなと思ったわけである。
自宅に帰ったが電車の中などでも主に「日本のクラシック音楽は歪んでいる」を読んでいたのだが、戦間期にヨーロッパで一時流行した新即物主義の誤った解釈にいまだに支配されている、と言うことを言っていて、いろいろと思うことがあった。音楽マンガ、特に「ピアノの森」などでは要はこれ、つまり「楽譜通り至上主義」に対する戦いがずっと描かれていたわけど、つまりは世界に行ってしまえば日本の音楽教育など恐れる必要はなくなる、というテーマなのだよな。この本を読んでいると改めて日本のクラシック音楽の歴史は浅いんだなあと思わされる。ほぼ100年足らずしかないのかと。
いろいろ読んでいて、この本はかなり論争的な本だなと思う。日本における権威とは別にショパコンで結構上に行った人がいるとか、洋画における黒田清輝と藤田嗣治の関係みたいな感じがする。日本における権威と世界とのギャップ。医学黎明期における科学者としてスターの北里柴三郎と、東大医学部を根城に権力を築いた青山胤通みたいな感じでもある。日本のクラシック、特にその教育に関してはおかしいなと思うところは多々あったがその理由が結構分かったような気にはなった。
ただ、第3章について、日本の伝統音楽、邦楽が当道座の盲人たちによって「のみ」作られた、というのはちょっとどうなのかな、という気がした。日本の伝統音楽において視覚障碍者の占める位置は琵琶法師以来の幕府認可団体である当道座の存在が大きい、というのはよく理解できたのだが、同じく視覚障碍者の団体である盲僧座や女性の組織である瞽女座もあり、浄瑠璃や地歌も作曲したのは当道座の人たちだというのだが、浄瑠璃の多岐にわたる系統の音曲をすべて当道座の人が作曲したというのはちょっと俄かには信じられないし、数多くつくられた歌舞伎や人形浄瑠璃の伴奏音楽としてつくられた曲は彼らの手によるというのもちょっとどうなんだろうと思う。また当然ながら各地の民謡、馬子唄や舟歌などや、当道座ができる以前からの雅楽なども彼らの手によるものではないだろうから、この「のみ」というところにはかなり引っかかるが、われわれが思っている以上に邦楽における当道座の占める位置の重要性は高い、ということ自体は事実だろうと思う。
実際、「風が吹けば桶屋が儲かる」という話においても、風が吹けば砂が目に入って盲人が増え、盲人は三味線を弾くから猫がつかまえられるので、猫が減ってネズミが増えるから桶がかじられ、桶屋が儲かるというストーリーである。この辺のところについてはまた機会があったら調べるかもしれないと思う。
一度家に帰って少し休んでいたらすぐに午後の時間になったので早めに出かけて、昨日はまず久しぶりに千駄木に出て往来堂書店まで歩いた。これは昨日名古屋のちくさ正文館という書店が閉店したというニュースを読んでいて、棚の作り方やフェアの作り方の話が面白く、特に棚の作り方で「ジャンルや作家で分けて並べるんじゃなくて、“傾向”で棚をつくっていくこと。短歌ならこの作家、外国文学ならこの人と、それぞれのジャンルのキーパーソンをまず押さえて、そこから掘り下げていくのは意識していました」というインタビューを読んだ。
これは「草子ブックガイド」で古本屋の店長が西行を探しに来た青年に少し待てと言って「西行の棚」をつくり、その棚の本を読んでいると本同士のつながりが見えてきて「西行という大きな海が見渡せるようになった」という話を思い出した。
そして、自分の知っている書店でそういう棚をつくっているのは往来堂だなあと思って、久しぶりに出かけてみたわけである。その期待はたがわず、棚を見てるだけで楽しかった。今日はすでに何冊も本を買ってしまっていたので新しくは買わなかったが、本を読みたいという意欲が改めて書きたてられるような棚だったなと思う。
途中で和菓子屋さんが目について入ってみて、和菓子を二つ買ってから歌舞伎の中村七之助さんが楽屋見舞いナンバーワンと言っているというおこわが目についたりして、これももう他のを買ってしまったから買うのはやめたのだが、一度このあたりに住んでみたいなと思ったのだった。
根津から千代田線で新御茶ノ水に出て神保町まで歩く。途中自然食の店のガイアを店頭だけ見たのだが、帰ってきたら石鹸が終わりそうだったのでアレッポの石鹸を買えばよかったとあとで思った。しかしあの辺も大変だからどれくらい輸入されているのか、ということは気になった。
神保町では最初にディスクユニオンに行った。雨が降りそうだったから傘を持って行ったのだが、もし降ってきたら買うのはCDだけにしようと思っていたのだけど、晴れてきたのでルービンシュタインのラフマニノフピアノ協奏曲2番のLPとカール・ベーム指揮のワグナーの序曲集を買った。それから先日食べそこなったカレーを食べに行き、書泉グランデをのぞいてマンガなど物色。
自分のことを掘り下げて考えているのだけど、今日いろいろ歩いてみて自分は一つのことを掘り下げるタイプという意味でのオタクではないなと実感した。いろいろなものを「見取り」ながらその組み合わせを楽しみたいタイプだなと。そうなると必然的に批評家的な視線にはなるのだが、それらの作品の上澄みを掬い、制作の努力を搾取するようなものの見方はなるべく避けるべきだなと改めて思ったりした。教師=「先生」が生徒の背中を押したり支援したりするのが仕事であるように、批評家=「読者」もまた制作者がよりよくものをつくっていけるように背中を押したり支援したりする存在でありたいなと思う。私が読んでいた限りでは小林秀雄や白洲正子はそういう書き手だったと思うので、このあたりのことに関してはそういうふうに考えて行きたいと改めて思った。
神保町から三越前に出てタロー書房を少し物色。ここもマンガや文庫類のセレクトが割合個性的で見ていて楽しい。そんなに買うことがないのはやはり自分とは趣味の持ち方が違うからだが、違う趣味であっても棚にそれなりの主張があるとその作り手と対話しているような感じがして楽しいものだなと思った。
日本橋まで歩いて丸善でカレンダーを探す。3階の催事場はもうカレンダーはなくなっていたのでもう駄目かなと思いながら地下の文具売り場へ行ったら、少しだけ残っていて、ルネサンスの名画カレンダーとマチスの版画のカレンダーがあった。かなり悩んだのだが、結局マチスの方を買って帰る。壁にかけてみると、隣のモローのポスターにマッチして割といいなと思ったり。ルネサンス名画では主張が強すぎただろう。
帰ってから、ワグナーを聴き、ルービンシュタインを聴き、そのあとで調性出現以前の音楽ということで12世紀のカタルーニャの教会音楽のレコードを聴いていたのだが、調性出現の意味が改めて分かった感じがした。また、調性出現以前の音楽が懐かしい理由は、邦楽に続くような懐かしさがあるせいかもしれないと思ったりもした。
朝は起きたら6時を過ぎていて、サンドイッチとマヨネーズとジャンプ・ヤンマガ・スピリッツをコンビニに買いに行き、ブログを書いていたのだが、もう9時になってしまった。自分がどのようにすれば充実を感じるのかはだいぶわかってきた感じがする。
今週帰京したのは一つには建築設備定期検査(換気扇の検査)があったからなのだが、今検査の人が来て5分ほどで終了した。これで家にいる必要もなくなったのでまた出かける予定である。