日本の保守思想の大枠について見取り図を書いてみる

3月21日(火・春分の日)晴れ

今日はお彼岸。昨日は「魔法使いの嫁」を読んだり、母の施設等についていろいろ調べてくれた弟の報告を聞いたり。基本的には休憩・休みの1日。いろいろな問題についても弟が私とは違うアイデアや考え方を出してくれて、だいぶ方向が見えてきた。やはり普段一人でいろいろ考えているので行き詰まりやすいのだなと改めて思う。独身・単身・個人経営等の弊害というのはそういうところにも現れるのだなあと思う。やはり人間は社会的動物ということなんだろう。


保守についていろいろ考えたり書いたりしているわけだが、保守(保守思想)の大まかな全体像というものについていろいろ考えていて、ある程度見えてきたところがあるのでそれについて書いてみたい。ただまだ精密性はないのでアイデア段階だが、あとはこれについてより詳しくみていけばいいということなのだと思う。

保守というのは左翼革命思想やリベラル思想に比べて多様性が高く、また理論的に確立されている部分は少ないのでいろいろな人が「保守」という用語を使う場合、何を指しているのかが混乱していることがよくある。特に、左翼・リベラル方面からの批判においては、自分が否定したいもの、気に入らないものを一括りに「保守」や「ネトウヨ」という感じの言葉でやや雑駁に表現することが多いので、書き手と読み手の認識ギャップが生まれやすいという面はあるように思う。

進歩主義系の思想は社会の変化に合わせて達成されたものとその先にあるものが目標として定めやすいので明確なイメージを結びやすい。しかしそれがその理想通りにいかないので「現存社会主義」みたいな理想と現実のギャップを表現する言葉が現れたりする。

保守系の考え方は、江戸時代の保守がそのまま現代の保守思想として使えるということはほとんどないわけで、これはもちろんルソーの思想がそのまま現代に活かせるわけではないのと同じといえば同じだが、各時代の人々が何を重視していたのかを考えていくことで、その大事なものが時代を問わず人間にとってやはり大事なものであったらそれは大事にしたいわけだし、それを現代に活かすためにはどうしたらいいかという考え方が必要になってくる。

だから進歩系の思想だけでなく保守系の思想においてもその歴史(思想のあゆみ)というものは重要になってくる。そうした場合、特に見えてくるのは、保守系の思想においては「近代的な保守主義」と「より伝統的・古層的な保守主義」の二つの方向の軸について考えた方がいいということがある。

近代的な保守主義というのは、例えば「自助的な保守主義」というものがある。自分を高めて自分で一人前になっていくと言う修養主義的な考えで、それは自分についての責任を自分で引き受ける思想といってもいい。これはリベラルないし左翼的な「自分がうまくいかない原因は社会に問題がある」と言う思想と対立するものと言ってもいい。

もちろん、このどちらかだけで全てを説明できるわけではないので、自助的な考えはあってもセーフティーネットの思想は必要だし、社会変革をしたところで全く努力をしない人間が成功を掴めるはずもない。最近はこの辺りどちらも極論に走りがちなのが問題だと思うのだが、(近代的)保守はより自助を重視する思想だと言っていいだろう。

その延長線上だが、近代保守は経済的繁栄を重視する。進歩派がどちらかといえば個人の幸福はお金では計れない、と言うような主張をしがちだが、これは資本主義とマルクス主義の対立からくる部分もあるのだが、ブルジョア的な経済繁栄主義の立場に近代的保守は立つことが多いと言っていいだろう。

三つ目は、近代保守は安定統治を求める。統治の安定感が重要なのは、国家運営のうまく行っていない国を見ればその悲惨さが分かるわけだが、江戸時代から日本の統治は基本的に安定していて国内に反政府的な巨大な軍事勢力があると言うような状態はずっとなかった。もちろん解釈によっては薩摩や長州は江戸時代においては巨大な潜在的軍事勢力であったといえなくはないが、第一次長州征伐に見られるように圧倒的な軍事力を持つ徳川幕府のもとで軍事的優位性によってその潜在的反政府性は見えなくされていた。

現代の保守が自民党支持者が多い、逆に自民党支持者が「保守」であると言う観念は、この「統治の安定性の重視」と言うところに由来するだろう。たまさか実現した「非自民非共産連立政権」や「民主党政権」の不安定性はやはり歴代の自民党政権に比べれば際立っていて、「悪夢のような民主党政権」と言う安倍元総理の言葉にある通り、現代日本人が保守的だと言われる大きな理由はこの「統治の安定性」に価値を置いていると言うことにあるだろうと思う。逆に野党は政治的不安定性をもたらさなければ自分の存在意義を示せないのでより墓穴を掘ってしまうと言うことになる。

四つ目は、近代保守は国防意識が高い。近代というものが日本にとっては欧米帝国主義勢力の圧迫によって始まり、「尊王攘夷思想」が日本を席巻して以来、日本人は国防に向き合ってきたわけだが、さまざまな経緯を省略していうが、敗戦によって日本は武装解除され、軍事力を喪失した。

もともと国防意識やナショナリズムというものは必ずしも保守勢力の思想ではない。近代ナショナリズムがフランス革命によって生まれたように、ナショナリズムや国防意識は左右を問わないのが世界的な考え方だ。しかし日本はこうした経緯から左翼が反軍事・反国防思想、保守が国防思想という傾きになってしまった。ロシア=ウクライナ戦争によってリベラル派の国際政治学者の報道などでの活躍もあり、「権威主義国家の侵略に対抗するナショナリズム・国防の重要性」というものが啓蒙されつつあるが、まだ日本では左翼は化石的な反戦思想が強く残っている。

こうした経緯から、現代の日本では国防意識が高いと保守的・右翼的とみなされがちであり、実際そうした傾向の考え方を持っている人が意識が高いことが多い。

以上は、保守的な思想と近代的な思想や歴史的経緯が結びついた、近代的な保守思想だと考えることができるだろう。

一方で伝統的・古層的な保守思想というものがある。例えば農村共同体におけるいわゆる「村意識」のようなものである。私見によれば、これはもともと室町時代の惣村に起源を発していて、荘園領主や守護の収奪から村落共同体を守るために団結したことが現在の「村イメージ」にある「頑固で排他的な村意識」の起源だと思う。それに江戸時代の封建的上下関係の支配や明治時代の復古的保守の思想が加わって強化され、また戦後は農地改革によって小作争議的な運動が終焉を迎えることでさらに保守化した、というものだろう。これらは保守と言われる者の中で最も頑迷と見られがちだが、自分たちの共同体を守るという意識に発している意味でアテネのポリスやフランス革命のパリと同じような民主的な意識とも言えるということは指摘しておきたい。

「共同体志向」という意味では「村意識」と「家意識」は重なるものだが、この辺についても「天皇制」と並ぶ左翼・フェミニズム用語としての性格が濃くなってしまった「家父長制」という言葉を使うことはあまり妥当ではないと思うが、保守の一つの古層にこうした村や家などの共同体志向があることは確かだろう。それが愛郷心(パトリオティズム)や愛国心(ナショナリズム)につながっていくのはアンダーソン・吉本隆明的な「想像(幻想)の共同体」的紐解き方もあるけれども、人間に本来ある素朴な類推もまた働いているだろうと思う。

そしてその共同体意識を支える信仰的な部分として、祖霊信仰(志向)というものがあるだろう。これはアメリカなどの宗教保守とは違うもっと土着的なものなのだが、村や家(地域共同体や血縁共同体)がはっきりと農村などにおいても成立してくる中世後期から近世にかけての時代に信仰の側面からも確立していったと思われるので、同時進行的なものだったのだろうと思う。信仰がより古層であると考えるのに妥当性があるかどうかはわからないが、成立した後にはより基盤的なものとして意識はされたかもしれない。

それとも関係あるものとして、「正統志向」がある。これは、日本においては「天皇(皇室)による統治」こそが正統であるという思想であり、その他のものの正統性が全国的に確立されたことはなかったと思われる。これは古事記日本書紀の時代から、中世の神道学説によっても補強されてはきているが、それがはっきりと確立したのは江戸時代の国学思想だろう。江戸時代は儒教=朱子学が官の公認の思想だったわけであり、それが必然的に持つ中華思想=中国中心思想を克服して「日本こそが正統である」という思想が出てきたのが国学だったわけだ。

それでも幕末には「建武中興の再現を目指す」というような思想が強かった中で玉松操の提案により「神武創業の原点に帰る」という革命的な提案がなされ、「王政復古の大号令」により正統意識の強い方向性が生まれた。思想的な保守といえばこの辺りが議論されがちだが、ここは重要だけれども一つの力として見ておきたいと思う。

共同体志向・祖霊信仰・正統志向に次いで四つ目は文化的伝統志向である。歌舞伎や茶の湯、能狂言や舞楽などの古くからの芸能、和歌や古典研究などの学問についてもそうだが、日本はものづくりの国という意識が特に民藝運動の時代から高まって、そうした職人芸への賛嘆というのが一つの伝統嗜好を形作っている。縄文時代以降の遺跡が多数残っている国でもあり、古くの文明や社会を現代に再現したいという思いはいまだに熱い。木簡研究などが揶揄の対象にされていたが、文化伝統志向という意味では保守の中心の行為として位置づけられることは銘記しておきたい。

五つ目は倫理志向である。禅宗などの影響による人間性の確立(これは自助とも繋がるが)を目指す志向であり、清潔志向もまたこれに含まれると思うが、形として意識されやすいのは「武士道」だろう。これも新渡戸稲造の紹介によって広まったということもあり、近代的な意識だと揶揄されることもあるのだが、日本人の多くにとっては江戸時代以来の日本的精神の中心として意識されているのではないか。

これは現代のWBCやアメリカプロ野球における大谷翔平の活躍や、チームの愛称として使われる「侍ジャパン」という名前に如実に現れている。「サムライ」というのは日本人の精神性・倫理性を表す言葉として世界に向けて使い得るものであると我々は意識しているわけである。

そして、これはどちらに属するとも言い難いが、現代日本人の「安定志向」というものがある。いわゆる「生活保守主義」である。均質性の高い社会において治安の良い社会で気持ち良く生活できることへの日本人のこだわりはとても大きいだろう。それは「統治の安定」を望む思考や「経済的繁栄」を望む志向として反映され、「保守=自民党政権」を支える大きな力になっている。


こうしてみると、日本の保守を見取り図的に、ないし座標軸的に描こうとすれば、上下(y軸)に「近代性ー古層・伝統性の軸」をとり、左右(x軸)に「現実性ー倫理性」の軸を取るとより見やすいかもしれない。

こうした保守の見取り図をもとに、さらにそれぞれの性格について深掘り(探究)していくことによって、より保守思想の意味のようなものが見えてくるように思う。続編を待たれたい。

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