ミスをする理由:動作や思考、記録が雑になること/マンガの整理/わかりやすさと相応しい語る態度/自国の歴史を語る時に必要なもの

2月28日(水)晴れ

昨夜はなんとなく寝る気になれなくて少し夜更かしをしてしまった。昨日は変な失敗をいくつかしたので気持ちの上で整理がついてなかったのかなと今は思う。なぜ失敗をするのかと例えば動作における失敗を考えると、動作が雑になってるということがあって、その他のことでも疲れが出たりしている時や気持ちが他に言っているときに対応や記録が雑になってる、ということがミスをする原因なんだろうなと段々まとまってきた。

いつも忙しい感じなので時々つい気を抜いてしまう時にそういうことが起こりやすいわけだけど、結局は気持ちのメリハリをちゃんとつけながらやることなのかなとは思う。気を入れる時は入れ、抜く時は抜く。そのサイクルが細切れになるので難しいところもあるのだけど。まあいろいろミス防止策は考えていこうと思う。

昨日はブログを書いたあと法事の準備に取り掛かり、まず記録を持ち出してどういうことが書いてあったか調べなおしてやることを書き出したり。できることはやってすぐにはできないことはやる日を決めておくなどした。

マンガ関係の記録を見直していたら22日に発売だったコミックスを買ってないことに気づき、ツタヤに出かけた。「みちかとまり」2巻、「天国大魔境」10巻、「リエゾン」16巻、「見える子ちゃん」10巻は買えたが在庫がないものがあり、もう一つの書店に行って「冥冥冥色聖域」2巻を買ったが、ついでに少し気になっていた辻田真佐憲「「戦前」の正体」(講談社現代新書、2023)があったのでそれも買った。

昼食後に休憩した後作業場の本棚の整理に取り掛かり、マンガ雑誌を本棚に置く数を減らして残りは別の場所に保存することにした。思ったより大変になったので途中で切り上げたが、少し部屋を使いやすくしておきたい。

なかなか本を読めなくてそれに関することをかけてないのは残念だが、毎日をもう少し余裕を持って回せるようにしながら、少しずつ読んでいきたいと思う。


最近のアカデミズムで「わかりやすく、親しみやすく」路線が強くなっていることが、ちょっとどうかなと思う時がある。例えば、ウクライナ戦争など「戦争を論じる」人たちがある意味明るく楽しそうに振る舞っているように見えるという問題があるのかなと思う。「戦争を論じるのにふざけすぎ」という批判はまああり得るとは思うのだが、直接日本の安全保障と関係ないところの戦争を闊達に論じていれば、ちょっと明るすぎる感じに見えるのはある意味仕方がない気はする。

もしこの戦争が東アジアのことであれば「不謹慎だ」という声は現在のレベルではないことは確かで、問題の質とそれを論じるのに相応しいスタイルの選択というのはある程度はあるだろうなと思う。この分野には個性豊かな人が多いのでびっくりするような扮装をしていたりするわけだが、ある意味状況にのめり込みすぎるなというメッセージであるようにも思ったりして、風紀委員的な批判ばかりが正義というのもよくないのだろうなとは思う。

啓蒙書などを読んでいると、漢文で引用がなされた後、「面倒くさかったら全部読まなくてもいい」みたいなことが書いてあったりして、そんなことは読者が勝手に判断するので書かれると読者が舐められているように思う、みたいなことが最近よくある。

そう書いておかないと途中で放り投げられたら残念だから、ということなのかもしれないが、そういう人はどんなに親切に書かれていても放り投げるし、頑張って食らい付いてくる人は多少難しくてもついてくるだろう。その辺余計なお世話にしか思われない。

魅力的な内容の本でそういうことで白けて読む気をなくすことも多いので、そういうところはあまり配慮しない方がいいような気がする。


「「戦前」の正体」パラパラと読んだが、書いてあることは割と間違ってないことが多いのだけど、狙っているところが「戦前の日本に対するネガティブな立場からの批判」である感じがして、その辺が嫌だなと思った。もちろんいろんなスタンスがあっていいことは前提として、やはり自分の国を論じるためにはその歴史に関してもある意味での「愛」があって欲しいというのが自分の考えではある。愛があれば批判でも読む気はするが、まだちゃんと読んでないので本当はそうなのかもしれないけれども、今のところちょっとそういう空気を感じてしまっている。

まあとりあえず読みながら感想を書いていきたいと思う。

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