チェックが甘い/「こどものうた」の「大人の事情」/「アメリカのデモクラシー」と「参議院の理想」

1月27日(土)晴れ

あっという間に1月も月末だが、ここにきてようやく冬らしい気候に少しはなってきた感じだ。今朝の最低気温はマイナス7.2度、昨日と同じくらいは寒い。天気図を見ても大変はっきりした西高東低で、特に北日本は厳しい冬の気候という感じだ。当地では朝の気温は低いが日中は5度まで上がる予想。昨日もそうだったが天気がいい分、朝夕は寒いが日中は気温が上がるという感じになっている。昨日の1時間ごとの気温の推移でいうと午前11時から午後6時まではプラスの気温で、最高が15時の2.7度。今日の予報でもプラスの時間帯はほぼ同じくらいのようだ。諏訪湖の全面結氷から御神渡りに関しては、マイナス10度くらいの日が1週間くらい続かないとなかなか難しいので、大寒に入ってから今日で1週間なので、今年も多分難しいだろうなとは思う。温暖化の影響といえばそうなのだが、冬があまり寒くないのは個人的には多少楽だということはある。

昨日は午前中母を病院に連れていき、その足で蔦屋へ行って「バーナード嬢いわく。」の7巻を買ってきて昼食を摂ったのだが、なんというかどうにも忙しいのか疲れているのか、一つ一つやることがなかなか時間がかかって困った。昨日はなるべく早め早めで行動することを心がけ、郵便局へ行って切手を買ったりしたのだが、夜になってTwitterを見ていたら昨日がコミックゼロサムの発売日だったことに気づき(28日が日曜だった)、9時半過ぎになってから閉店間際の蔦屋に駆け込んで買う、ということになった。忙しかったり疲れていたりするとこういうチェックが甘くなる。

夜は少しだけゼロサムを読んだり「バーナード嬢いわく。」を読んだりしたが、気持ちを沈めてなるべく早めに寝ようと思っていたのだけど、12時前には寝床に入った。しかし4時前に目が覚めて、いろいろ考え事が始まってしまったのでトイレに行ってもう一度寝たら、なんだか変な夢を見て5時半頃目が覚めた。


6時過ぎに車で出かけてガソリンを入れに行ったのだが、車の中で「ビバ合唱」を聞いていたら童謡特集で、「汽車ポッポ」など自分が知っているものもたくさんかけられていた。特にへえっと思ったのが「ろばの会」の話だった。当時の童謡は「レコード童謡」の時代で、小鳩くるみの歌う「おもちゃのマーチ」や「おうま」などが有名だったが、新しい時代の子どもの目線から見た子どものための歌が必要だと1955年に結成された作曲者の集団で、「サッちゃん」や「めだかの学校」「おなかのへるうた」などが作られたのだという。この辺はちょうど自分が幼児の時代のストライクになるので、子どもの一人称の歌というのはそういう経緯で作られたのだなということがちょっとへえっと思ったのだった。

彼らは資本主義かシスターシステム化した「童謡」や「童謡歌手」と違うということを示すために「こどものうた」と称したのだというが、そういう「大人の事情」も今日聞いていて初めて知った。

これらの歌はレコード化というよりは「おかあさんといっしょ」などのテレビ番組で取り上げられることで知られるようになり、こうした子どもの歌のシリーズでは「およげ!たいやきくん」などの大ヒットも出たわけで、今朝も合唱曲としてこの曲も取り上げられていた。これは私が中一の時の曲で、もう童謡を聞くような年代ではなかったが、この曲と「山口さんちのツトムくん」はレコードを買ったことを覚えている。

「一年生になったら」は自分より下の世代の曲だと思っていたが1966年の曲なので、私が1年生になる前の曲だとわかった。ただテレビで大々的に放送されたのはもっと後ではないかという気はする。


昨日はそんなに本は読めなかったのだが、一昨日に書いた読みかけの本のうち、「エリートたちの読書会」のトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」のところは読了した。

日本では「民主主義」という言葉は現代でもよく使われるけれども、英米では「democracy」という言葉はあまり使われない、例えば事実上のアメリカ史上最初の憲法である「メイフラワー誓約」にも、ジェファソン起草の「アメリカ独立宣言」にも、リンカーンの「ゲティスバーグ演説」にも、デモクラシーという言葉は出てこない、というわけである。

つまり、日本では民主主義という言葉はほぼ「良い意味」でしか使われていないが、欧米ではまずギリシャのプラトンからして師のソクラテスを死に追いやったアテネの民主制について否定的な見解を持っていて、「哲人政治」を唱えたことからわかるように、欧米の文脈ではデモクラシー、民主主義というものは否定的にとらえられることも多いわけである。ということを村上さんは強調していて、歴史をやっているとそんなことは当たり前なのだけどなと思うのだけど、日本の一般認識で民主主義が「良いこと」とされているということは、もう少し認識しておいた方が良いかもしれないとは思った。

「アメリカのデモクラシー」では、そうした民主主義がアメリカでうまく行っている(つまりヨーロッパではうまく行っていないとトクヴィルは考えている、実際フランスの第一共和制も第二共和制も「ナポレオン」によって廃止された)理由として、「アソシエーションが発達しているからだ」と結論づけている話が取り上げられている。つまりシステムとしては脆弱なのだ、ということが村上さんの趣旨だと思うのだが、アソシエーションというものの分析についてもう少し踏み込んでくれればいいのに、とは思った。

このアソシエーション重視という考え方は、実はアメリカ人の理想主義者たちが作った日本国憲法下の議会体制にも反映されていて、戦前の貴族院に代わるものとして作られた参議院にその構想が残っているわけである。

衆議院がその地域に住む「人々の代表」であるのに対し、県単位で選出される地方区の議員は「都道府県の代表」という「各州の代表」としての「アメリカ上院」の要素が反映されているわけだし、「全国区(今は比例区になったが)」は地方単位では選ばれ得ないそれぞれの職能団体の代表者が選出されることが想定されていた。だから今でも医師会の代表とか看護師団体の代表が比例区から選出されているのはその理念に沿ったものであるわけである。つまりこの「職能団体の重視」というのが「アソシエーションを重視するアメリカのデモクラシー」の考え方の反映だったわけである。

だから本来は参議院は「無党派の良識の府」であることがこれは明示的に理想とされていたわけだけれども、戦前の貴族院と同様、結局は政党化が進み、逆にそうした職能団体も労働組合は社会党や共産党の、医師会や看護師会などは自民党の下部組織化していってしまい、職能団体の政党色が強くなるということになってしまったのは理想とは離れているということになるだろう。

まあそんなことをこのくだりを読みながら考えていた。


寝床の中では「運」とか「神の加護」などということについていろいろ考えていたのだが、この辺りはまだ文章に書けるほどまとまってないので、また改めて書きたいと思う。

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