見えないものを出現させる高浜虚子の魔法/ジャンププラス「正しくない先輩」を読んだ:「正しくないこと」とカジュアルに付き合える日本の良さ
7月17日(月・海の日)曇りのち晴れ
今朝も夜明けの頃から起きていたのだが、いろいろやっていたらブログを書く前に11時になってしまった。暑くなる前にいろいろ済ませようと思うのだが、なかなか思うように行かない。
昨日は高浜虚子の句を読もうと思って図書館に行って「日本の詩歌3 正岡子規 伊藤左千夫 長塚節 高浜虚子 河東碧梧桐」(中央公論社、1969)を借りてきた。
読み始めたのだが、実際この人天才じゃないかなと改めて思った。「目には見えないもの」の形を表すのが天才的に上手いと思う。まず唸ったのは、
送り火や母の心に幾仏
いや、心の中の多くの故人が見えてしまって驚いた。虚子ではもちろん
去年今年貫く棒の如きもの
という句が有名だが「おいあるよ棒が!」、みたいな感じがすごいと思う。これは「天皇」のことだと言われている(これは時間というものが天皇に由来する元号によって定められているという意味があるのか)けど、そうとも取れるし日本に土着のもの全てとも取れる。
この見えないものを出現させる言葉の魔法みたいなものが虚子の骨頂だなと思う。
かと思うと
草に置いて提灯ともす蛙かな
のうわあそう来たかという感じ。あの顎を膨らませて鳴くタイプのカエルの顎を提灯とな、と。
煮ゆる時蕪汁(かぶらじる)とぞ匂ひける
というのも「あー、カブの入った味噌汁ってなんでカブの匂いがするの?」みたいなあの匂いの実在性の立ち上がり方がすごい。俺は蕪汁だ、名前はもうある、みたいな感じ。結構遠くからカブと味噌の匂いがする。
🪲金亀子(こがねむし)擲つ闇の深さかな
というのも以前読んだ覚えがあるが改めて読んで笑ってしまった。ブンブンうるさいコガネムシを捕まえて窓から外になげうつ。その先には深い闇のあるばかり。なんかほんとに自分の生活の一コマみたいな感じがする。
かと思えば、
春風や闘志いだきて丘に立つ
というおいアオハルかよ、アオハルだな、みたいな句も虚子は平気で読む。
人間吏となるも風流胡瓜の曲るも亦
ってなんか酷い(笑)と思うが、今なら吏の代わりにwokeとか入れたい感じ。
我を指す人の扇を憎みけり
ってなんかツイッターっぽい。人に対して言われても気にならないけど、自分に対して言われると腹が立つことって多いよなと思う。
浴衣着て少女の乳房高からず
こういう絵画的な、写真的な切り取り方って、俳句のような短詩のある種独壇場なのだが、性的なものと幼さを慈しむ感覚の往復運動が句になっているなと思う。
大いなるものが過ぎゆく野分かな
ってなんかかっこいいが、何か風の神や雨の神が台風の姿をして通り過ぎて行ったような感じがする。こういう詠み方が私は好きだなと思う。
命かけて芋虫憎む女かな
というのは滑稽みがあるが、現代の「おっさんヘイト」とかに取り憑かれた女みたいだなと読んでしまうのは何かに毒されているからだろう。
落花生喰ひつつ読むや罪と罰
というのも笑ったが、「ずぶ濡れの大名を見る炬燵かな」みたいなものをちょっと感じた。ただ、後者は権力者を笑う痛快さ、みたいなものがあるが前者は「傍観者というのはかくの如きもの、ある種間抜けなものでもある」、みたいな感じで批評性は「罪と罰」ではなく読んでいる方に向いている。
そう言えば最初に認識した虚子の句は
遠山に日の当たりたる枯れ野かな
でこれは確か中学の教科書に出てきた。それ以来、虚子の句をそんなにすごいと思ったことはなかったのだが、やはり「去年今年貫く棒の如きもの」を知ったときは、最初はよくわからないがだんだん震撼とするものが出てきた。これは昭和25年、つまり敗戦後76歳というときの句である。朝鮮戦争が始まり、日本は特需に沸く一方、警察予備隊が作られると共に共産圏に対抗する国という意味での独立国日本を復活させる動きが出てきた年でもある。占領の辛さに耐えながらもいつしか慣れてきつつあり、また独立国となって米ソ対立の下手をすれば戦争にもまた巻き込まれるのではないか、という不安もあっただろう。
そこにおいて「貫く棒の如きもの」というものを虚子が詠むのは、安心して欲しい、日本には歴史を貫いて存在する天皇という存在があり、決して揺らぐものではないのだ、ということを詠みたかったのではないかと思う。
だからと言って虚子の句を読もうと思ったことは特になかったのだけど、こうして読んで見るとこの人はやはり独特の感覚、世界の捉え方を持っていて、それが晩年まで露出することがあったというのは感動する、というかこれから老いていく身としてはありがたいというか、ゲーテの「ファウスト第二部」もそうだが、老いても創作はできるということを確認させてもらえるのは良い。
もう一つ感想を書いておこう。今日のジャンププラスで評価第1位になっている「正しくない先輩」について。
これは主人公が自殺してしまう話なのだが、見知らぬ土地で死のうと思って怖気付き、死に損なって帰ってきて、結局自分の部屋で死ぬ、というのがリアルだなと思った。
例え死のうと思っていても死ぬのは怖い、だからハードルが高いので少しでも下げようとしているのだよなと思う。練炭自殺などでも、知らない人とでも何人かで死のうとするのは、怖さや不安を少しでも払拭してハードルを下げるためだなと思う。
私は死ぬことを考えたことがないから(二十歳の頃に「自分からは死なない」と決めたから)正確なところがわかるわけじゃないけど、死ぬことに限らず、「気持ちのハードルの高さや低さ」で「何か」が決まる時はあるよなあと思う。その時において、人間の意思とは何か、みたいなことは思う。
ジャンププラスのコメント欄を見ると「死ぬのはダメだ」とか「自殺を煽っている」みたいな非難の言説が並んでいる一方で「正しいことを言ってほしくない」「何を読んだのか」みたいな論争が生まれていて、ある種この作品の狙いはそういうところにあったのかもしれないと思う。
「正しさ」とは何か、例えそれが必要でも、それを「重荷」に感じてしまうことはある、というある種のセンシティブさを問う話とは言えるのだけど、「正しさ」が絶対的でなく「正しくないこと」に多くの人たちがカジュアルに共感を覚えるというのが日本らしさだな、とも思う。フェミニズムやLGBTQ運動を見ていても、政治とかはつい「正しさ」に引っ張られがちだが、本当には納得していない人が多くいる、ということがこういうことからも垣間見られるな、と思った。
欧米文化というのはそういう意味で「正しさ」に呪縛され息もできなくなるところがあるわけだけど、日本では若者はカジュアルに「おかしくね?」と言えるし大人も「まあ一応そういうことでやりますかね」「いやはやうるさい人が多くて困りますなあ」みたいに愚痴を言いながら適当に付き合う、みたいな柔軟性があるから、欧米が「同性愛は悪!」と叫んでた時代でも同性愛者になんとなく居場所があり、「LGBTQは正義!」と呼号し始めても「へえ今度はこういうこと言い出したんだね」みたいな感じで柔軟にスルーできるところが良いのだと思う。
日本ではまあ、こういう人の世の決めたことはいつ変わるかわからないことだし、あまり絶対視しない方が身のため、みたいなことを学んできている。これはある意味戦前戦後で価値観が180度変わったこと、さらに言えば幕末維新でも尊皇攘夷がいつの間にか文明開化になってたことなど、その場に合わせて多くの人が柔軟に変わっていける良さ・剛さ(もちろん逆にそこで疎外される人もいるわけだけど)みたいなものは感じる。
逆に言えばそこに一本芯が入りにくいところはあるのだけど、その位置にあるものが天皇制ではないかというのが虚子の解だったわけだ。
その意見には私は割と賛成なのだが、天皇制自体がどのように続いていくべきかはいろいろな勢いがあるだろうなと思うし、良いように続いてくれると良いなとは思う。
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