弥助問題で感じる「歴史学者に祖国はあるか」という問題/ハリス副大統領の「華」

7月23日(火)晴れ

昨日は午後は休みだが職場に避難して冷房を効かせて仕事をしようと思っていたのだが、つい弥助問題に首を突っ込んでしまってあまり仕事が進まなかった。6時を過ぎてから岡谷に買い物に行って、書店で本を見て河野哲也「アフリカ哲学全史」(ちくま新書、2024)を買い、中古CDのコーナーでハイティング指揮・コンセルトヘボウ管弦楽団の「ショスタコーヴィチ交響曲5番・9番」を買った。その後スーパーに行って夕食の買い物をし、帰ってきたら8時を過ぎていて、夕食後にやろうとしたことは全然できずにそのまま寝てしまった。

朝起きたのは4時ごろで、その後溜まっていた地元紙を読んでメモをつけたり、ハードディスクがいっぱいになっていたので「夜桜さんちの大作戦」をBDにダビングしたり、家の前の道にはみ出した草を刈ったり、ゴミを捨てにいくついでに作業場の漫画雑誌を整理し、ついでに周りの草を刈ったり、車で出かけてコーヒーを買ってきたり、帰ってきて仕事の新しい企画を練ったり、入浴したりしていたらもう9時になった。まあその間にもTwitterを読んだりしているが、まだジャンププラスも「ダンダダン」しか読んでいない。まずご飯を食べないと。

弥助問題はTwitter内部ではある程度理解が浸透してきたと思うのだけど、いまだにまずロックリーの著作を読んで、みたいなところから始めている人もあり、理解してほしいところはそこではないのだけどなあとは思うのだが、今までの国内問題とはかなり性質が違うから同じアプローチでは済まないところがあるということがなかなか理解はされないのだろうなとは思う。

弥助問題については概略二回にわたってnoteを書いたので、未読の方はそちらを参照してもらえるとありがたい。

だいたいこれで自分の言いたいことは書いたかなとは思ったのだが、書いた後でこれも重要だなと思うようなこともいろいろ出てきている。

重要なことの一つは、Twitterにも書いたのだが、noteを書いてみて「日本人にとって歴史というものは無意識下にしろ自分の一部としてのナショナルアイデンティティの根源」であるということだ。

だから弥助問題のめちゃくちゃさに多くの人が腹を立てた。歴史学者の方がそれがわかってないしポリコレ意識でむしろ大衆が右翼化したと騒いでいる。史料に基づいて慎重に論を展開していくべき歴史家が「ネトウヨ」などという解像度の低い差別的なレッテル貼りはしてもらいたくないなと思う。その人の歴史学者としての姿勢や能力、史料批判のあり方そのものに疑問を感じてしまう。

アイデンティティ政治の典型は現在ではフェミニズムやトランスジェンダー活動家、ブラックライブズマターの人々ということになるが、彼らは自分たちの思想こそが政治的に正しい(ポリティカル・コレクトネス、略してポリコレ)とし、それに沿わない人々を糾弾してキャンセルカルチャーを仕掛ける。歴史学でもつい最近そういうことが起こったことは記憶に新しい。

しかしこういうやり方の系譜を遡っていけば昨日のnoteに書いたようにドイツ人のアイデンティティを侵害するものとしてユダヤ人や共産主義者を弾圧したナチスのやり方であり、近代日本のナショナルアイデンティティを丸ごと否定しようとした極東軍事裁判や占領政策であったことは確認しておきたい。

この問題はまだまだ議論されているけれども、いろいろと海外の情勢も見ていかないといけなくて、特にこのめいろまさんの連続ツイートは貴重な情報だと思った。

要はこういうアイデンティティ政治の一環で、企業側もDEI(これは20日のnoteを参照してください)に有利なようにそういうことを推進して、「黒人に勇気を与えるファンタジー」が盛んに生産されることが「政治的に正しい」ということになっていて、それ自体はまあやればいいとは思うが、それに日本の歴史が勝手に利用され、日本の歴史や日本人を悪役に仕立てているとことが問題であるわけだ。

先に書いたように、「日本の歴史」というものは「日本人のアイデンティティ」に深く関わるものであり、それに新しい説を付け加えようとすること自体は史料にちゃんと依拠し歴史学的な手続きを踏んだものならいいが(まあ現実には結構怪しいことをやろうとする歴史学者もいる気はする)、荒唐無稽なファンタジーを真実として受け入れろという要求に対しては当然ながら腹を立てるわけである。いきなりお前の親は差別主義者だと言われて怒らない人間がいないのと同じことである。

しかし、こういう動きについて、一般の人が怒っていても、歴史学者や彼らを含む人文学者の動きは非常に鈍い。それは、多くの人文学者が前途有為な歴史学者をキャンセルするオープンレターに署名したように、実際には彼らがアイデンティティ政治の側の人間であることが多いからだろう。

実際、一般社会に比べてアカデミア内部ではフェミニズムやトランスジェンダリズムなどのアイデンティティ政治に関わる人たちが多いし意識も違うわけだが、これは特に人文系など「金にならない」分野においてはいわゆる「実家が太い」人たち、上級国民と揶揄されたりする人たちが占める割合が年々高まっているのではないかと推測される。

パスツールは「科学に国境は無いが、科学者には祖国がある」という言葉を残したそうだが、彼は革なめし職人の息子であり、科学上の大きな功績を残すに至ったのは彼の努力によるところが大きいだろう。

日本では一般に社会階層について云々することは嫌われるし、一般に上層階級の人ほど「恵まれているからだ」と言われるのを嫌うけれども、実際にはいわゆる「上級国民」と中産階級、また正規労働者や非正規労働者といった階層が存在することは間違いない。

それぞれの階層について検討すると、上層階級というのはインターナショナルな性格を持っている。貴族は貴族というだけで分かり合える、というのは第一次世界大戦を描いた映画でもドイツの貴族の士官とフランスの貴族の士官が気を許しあっている描写に現れていたが、例えば現在のイギリスの王室を見てもチャールズ国王の母方(つまりエリザベス2世女王)の祖先はドイツのハノーヴァー選帝侯であり、父方(エディンバラ公フィリップ)のマウントバッテン家も本来の名称がバッテンベルクであるようにドイツ貴族の家系である。スウェーデンの王家はフランスの将校の末裔であり、スペイン王家の祖先はフランスのルイ14世である。このように上層階級・貴族階級というのは国際的に様々な形でネットワークを構築していて、グローバル経済のみを見て、ある意味インターナショナルな価値観によって生きているところがある。

一方で、中流階級のブルジョア・新中間層は基本的に国内にあり、国内経済の影響を強く受ける。彼らにとって国内経済の好調や不調は大きな関心事であり、それは自分の生活に直結する。現在の日本では徴兵制はないけれども、世界で初めて徴兵制が敷かれたのはフランス革命下のフランスであって、それはブルジョアやプチブルジョア(サンキュロットと呼ばれた)たちにとって、革命を守る=フランスを守ることこそが自らの運命に直結するからであった。

パスツールが「科学に国境はない」といったのは、もちろん科学の成果は世界人類の共有されるべきものであり、インターナショナルな存在であると考えたからだが、「科学者に祖国はある」と言ったのは祖国フランスこそが彼にとって守るべき価値、アイデンティティの根源であると考えたからだろうと思うし、彼自身がそうした下層ブルジョアの出身であったこととも関係しているだろうと思う。

これは余談になるが、現代においては多国籍企業のオーナー社長などは十分上層階級の存在であり、だからこそタックスヘイブンなどを利用して本社機能を出身国から移すことが多いわけだが、トヨタはガンとして拠点を愛知県に置いているわけで、その功績は非常に大きいと思う。日本において中京工業地帯が一人勝ちなのはトヨタをはじめ自動車産業が拠点を国内に置いているからであって、これは生産拠点をほとんど海外に移してしまった家電産業の本拠であった大阪・阪神工業地帯が衰退したのと好対照をなしている。豊田章男氏が自らを「日本ラブ」と呼ぶのは、十分根拠があることだと思う。

現代の日本で、例えばツイッターなどをやっている人の主力層はこの中産階級になるのではないかと思うし、だからこそ日本の国益を損ない日本のナショナルアイデンティティを傷つける弥助問題に強い関心を持っているのだろうと思う。

国家間の戦争が多く行われた19世紀において、一番国家と利害関係を持ったブルジョア=中産階級が愛国的なものを一番強く持っていたわけだが、労働者階級はまだ十分な福利を得られず、国家間戦争においても必ずしも報われなかった。だからこそマルクスは「万国の労働者よ団結せよ」と呼びかけたわけであり、労働者の国際組織=インターナショナルの国際連帯によって労働者の地位向上を目指したわけである。

帝国主義の進展によってイギリスなどでは「労働貴族」と呼ばれる豊かな人たちも出現し、ついには労働党がブルジョアの政党=自由党に代わって二大政党の一つとなるくらい国家利益にコミットしていくようになって、セシル・ローズのように「帝国主義こそが労働問題の解決策である」という方向性も出てくるわけだが、遅れた資本主義国であるロシアや日本においては共産主義運動は国際的に連帯する傾向を持ったわけである。しかし第一次世界大戦が始まると多くの社会主義者が戦争を肯定するようになり、反対したジョレスは暗殺された。

このような視点から見てみると、弥助問題に発言している人の中には国際結婚し外国にも留学していてそうした意味での国際ネットワークを持っている人もいるし、また共産党に所属した経験を持つ人もいる。そうした人たちが日本人にとっての国益やナショナルアイデンティティに冷淡なのも十分頷ける。今回起こっている現象を歴史的背景から説明するとそういうことになるのかなとは思う。極端な言い方をすれば、人文学者、特に「歴史学者に祖国はあるか」ということである。

また、日本は概ね豊かで自由な創作活動や研究活動が行われている国だが、先に述べたようなアイデンティティ政治が勢いを増してくると、歴史学者にオープンレターによるキャンセルが仕掛けられたように、表現の自由を主張する人たちの発言がヘイト扱いされたり彼らをレイシストとして糾弾するような風潮が出てくるとも限らない。今回の弥助問題の日本国内からの異議申し立てにしても「黒人を勇気づける創作を否定するとはレイシストである」というような見当違いの非難がすでにぶつけられているわけで、今後はもっとアイデンティティ政治の海外における動向に気を配らないといけないだろうことは先のめいろまさんのツイートを見てもわかることである。

こういう社会においても誰もが恵まれているわけでないことは当然で、この状況はフランス革命前のフランスに似ている部分があるなということを少し思った。ヴォルテールやルソー、ディドロやダランベールらに代表される啓蒙主義時代のフランスで、その「文芸の共和国」に参入しようと、多くの若者が希望を持ってパリに上京した。しかし多くのものがその希望を叶えることができないのは現在の日本と似ている。そうした若者はワナビーのままあるいはブリソのように警察のスパイになり、デマ文書を乱発したりして糊口を凌いだり、サンジュストのようにエロ小説を書いて顰蹙を買ったりしながらアンシャンレジームに対する敵意を拗らせていたわけである。やがて革命が起こると彼らは一端の革命家として立法議会の議員として選出されたりし、ジロンド派やモンターニュ派の一員として革命の過激化をもたらしていくわけである。

現在のアイデンティティポリティクスの担い手の中にも、こうした形でそうした運動に参加している人たちも多いように思う。文芸や研究の才能はなくても運動家としての技術はそれとはまた違うものだからである。こうした人々の中にはやはり日本の現状に敵意を持ち、「アイデンティティポリティクスによって日本を変えたい」と考えるようになった人たちも多いのだろうと思う。

日本のように高度に発展した資本主義社会において、様々な階級に人々が分化し、利害もまた対立するものになるのは致し方ない部分もあるのだが、日本が文化的に負い目を負わされる状況になったり、また間違った歴史を押し付けられて日本人としての誇りが傷つけられたりするという点においての利害は皆共通しているのだから、その辺りのことも踏まえて弥助問題のようなアイデンティティ戦争には心して接してもらえればありがたいと思う。


アメリカ民主党の大統領候補者選びはほぼハリス副大統領で固まりつつあるようだ。ハリス氏に関しては、副大統領になって以来の実績に不足があるようにも言われているし、また私から見ても政治家としての華が足りない印象が強いのだが、1968年の大統領選でも元副大統領であり1960年の大統領選のテレビ討論で華のあるJFケネディに負けたリチャード・ニクソンが当選しているので、まだ可能性はなくはないかもしれない。ただ、1968年には最有力候補だったロバート・ケネディが暗殺されるという非常事態があったわけだが。今回はトランプは住んでのところで暗殺を免れた。これがこの先どのような展開になっていくのか、まだ大統領選は長い。

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