タイヤ交換/トリガー条項/対話技術の日本における意味と有効性/ソクラテスの技術とヒトラーの技術、それにレーガンの技術

11月30日(木)曇り

夜中に布団の中で朦朧としているうちになんというか考えごとを始めてしまっていて、とりあえずトイレに行こうかとベッドを降り、別室の時計を見たら4時前。階段を降りてトイレに行ったのだが、お茶でも飲むかと思って居間に来て台所で湯を沸かし、お茶を淹れて飲んでいたのだが、なんとなく考えていた思考をノートにつけ始めたら結局起きてしまった。今はもう5時半。新しい「こういうことをやれるのでは」という仕事に関する発想をノートにつけたのだが、仕事にできるといいかなと思う。やれることをやっていかなくては。

月末でもありやることを考え始めたらいくらでも出てくるのだが、昨日は今朝のこの時間に雪が降るという予報だったので思い立ってタイヤを冬用に換えに行った。記録を見ると昨年の冬にスタッドレスを購入しているので今回は交換だけで済むなと思って安心して出かけたのだが、交換に4400円かかるという。天候のこともあるし手間もあるからお願いしたのだが、去年は3300円だったので大幅値上げである。作業を待ちながらネットで調べて、一本あたり1000円と考えて消費税こみで1100円、四本で4400円と考えればまあこんなものなのかなと思う。一本800円と考えれば3520円になるので一本あたりの料金が200円上がったと考えておけばいいか。それにしても消費税が重税だとよくわかる。

現在ガソリン代に関するトリガー条項について、国民民主党がその協議を条件に予算案に賛成したが、財務省は鈴木財務大臣を表に立てて徹底抗戦の構えだし、立憲民主党は大臣の「聞いてない」という答弁を引き出して財務省の援護射撃をしている。Twitterでも他の件では賛成できるツイートをすることがある人も財務省の問題を指摘するとブロックしてくる人がいて、この人も立憲民主党だ。彼らがなぜ財務省側に回るのかはよくわからないが、敵の敵は味方とやっていると弱者の味方であるはずの政党の価値が問われることが起こるのではないかということは思ったりはする。

などということをタイヤ交換を待ちながら考えた。

昨日は気温がすごく低いというわけではなかったのだけど天気が荒れ気味で、それは今日もそのような感じなのだけど、だいぶ冬っぽい荒れた感じになってきていて、気温以外の要素で身体に影響が出ている感じがする。昨日は入浴したのが朝だいぶ遅くなってしまって、入浴後の身体が普通に戻る前に寒風の中でタイヤを乗せたりして出かけたので少し調子を崩した感じがある。まあ実際には大したことではないのだけど、体調管理もメンタル管理も年の瀬に来るに従って重要度は増しているなと思った。


昨日は読書の方はあまり進まず、「対話のレトリック」を少し読んだ。こういうのを読みながらネットバトルを鑑賞すると、どういうやり方がよりうまく話の主導権を握れるとか、どういう攻防が重要なのか、どういうメンタルのあり方が大事なのか、などということが見えてきて面白い感じはする。

日本人もいわゆる日本的な「阿吽の呼吸」だとか「空気を読む」みたいなことがだんだん苦手になってきていて、それは逆に言えば「阿吽の呼吸を読ませる」とか「空気を読ませる」ことが苦手になってきているという一面もある。つまり、まだまだ日本は明示的でない、空気を読ませる社会であるのだけど、そこから明示的なやりとりが重視されたり他文化との共通認識を共有したり、また何を共有し何を共有しないかを明確にするような段階に移る移行期間的な感じがあり、「言いたいことを言う」ことが「自分の怒りや一方的な事情をいう」だけになってしまったり、「議論の相手に空気を読まされるのは嫌だが、自分の空気は読んでもらいたい」ことに無自覚であったりなど、ぱっと見みっともないことが起こったりしている。

自分の感じとしては、最終的に完全に明示的な文化には日本は移行しないと思うのだけど、明示的にも表現できる訓練のようなものはもっと必要だなとは思う。西洋的なディベートとそれが同じかどうかはわからないけれども、「対話のレトリック」で言われているようなことやアリストテレスが言っているようなことは参考にはなるだろうと思う。

実際のところ、ヨーロッパにおいてもアメリカにおいても、通常は言語化されない共通認識みたいなものはあるわけで、よく映画などでもアメリカ人の行動形態をヨーロッパ人が野卑と受け取ったり、ヨーロッパ人の言動をアメリカを馬鹿にしてると受け取ったりするようなことはあるわけである。増して欧米とは違う文化的伝統を持ってきた日本人は、自分たちの考え方は考え方として発信していかないと理解はされにくいし、欧米のコンテクストも理解していく必要はあるだろう。

ただ最近は欧米でポリティカルコレクトの思想がリベラルを中心に広まり、それに対する保守側のアンチポリコレの主張も強く、その争いの中で日本がスケープゴートにされて「遅れた国」扱いされることはよくある。発展途上国やイスラム圏を非難することは逆の意味でポリコレに抵触する可能性があるが、欧米文化をフォローしようとしている日本に対しては安心して上から目線で説教できるという利点が彼らにはあるからである。日本人、なかんずく欧米への移住者や生活者の日本批判は日本人の魂を失い彼らを小利口に真似た口吻で日本を批判するものが多く、「(欧米)出羽守」(二言目には「欧米では〜なのに日本は〜だ、日本は遅れている」と日本を批判する)と馬鹿にされたり嫌われたりしているわけだが、彼らはともかく欧米人そのものに対しては理解と戦略を持って対処していく必要はあるだろう。

ただ、欧米に追従する、欧米以外の価値観を見ないで欧米のみの価値観を追いかける、ということになってしまっている人も多いわけで、その辺りはまた問題がある。「多文化理解・マルチカルチャリズム」的な考えの人は例えばイスラム世界への理解を示しているように見えるが結局はポリコレ的なポーズであることが多いわけで、我々に本当に求められているのはそういうポーズではなくその本質を掴んで対処することだろう。そうなるとミイラ取りがミイラになる危険性も高いのだが、多くの先人たちの積み重ねの上に日本にもそういう蓄積はかなりできてきているので、ポリコレのポーズでない本当の国際理解を進め、日本人として適切に対処できるようにしていきたいものだと思う。

考えてみると自分も子供の頃から日本神話が好きで白虎隊の自刃に感動したりする面もある一方で、世界には飢えに苦しんでいる人もいるとか戦争で犠牲になった人たちは可哀想だと思うある種の意識の高さの原型的な感情も持っていた。

ただそういう方向のみに走らなかったのは、「天皇制」を攻撃したり神道を否定したりする人たちが世の中にはいるということを割合早い時期に知り、彼らが理想とするものについても考えたりはしたということもあるし、付き合う人たちの中で国際理解というものはどういうものかということについて考えたり、植民地支配というものがどういうものかとか自分なりに考えてレポートを書いて、大学で授業を受けた先生に強い言葉を使われたりしたような経験が、「自分の思想は自分で選びとっていかなければならない」という考えを持たせてくれたように思う。

日本は空気を読む社会であるから、自分の生存のためには思想すらも「生存に最適な思想」を空気を読みながら選びとっていく人たちが多いのは事実であって、特に近年は出版界や学術界などでその傾向が強いようには思う。そういう世界で思想的主導権を取っているポリコレ系の思想の暴走がなかなか止められないのはそういう「その世界での生存のためにその思想を支持している」人が多いということはあるだろう。

「自分はそうは思わない」とか「それはちょっと違うと思う」ということを言うためには、思想的な背景を充実させる必要があるのはもちろんだが、それだけではなく「その世界では生き残れてはいるけど一味違う発言をする人」として認められるようなある種の表現のテクニックが必要であるわけで、そう言う意味でも「自分が自分であるために」弁論術というのは重要だと思った。


「対話のレトリック」4章の「比喩・ユーモア・アイロニー」のところを読み終えた。最初は比喩や誇張の適切な用い方について書かれていて、その辺は最初は読みにくかったのだが今読み返してみるということは伝わってくるようになった。「無知の装いの効用」のところでは、「自分を過小評価する表現をすることで相手が発言しやすくする」、つまりソクラテスの「無知の知」の文脈の話が出てくるわけだが、ソクラテスは「もっと優しく教えてくれないか。そうでないと君の門下で学べないだろう」と言ったりしていてまるで現代の「この分野については素人なのですが」という大家の発言みたいなテクはソクラテスが元祖なんだなと思ったりした。

これはソクラテスにしろ現代の大家にしろ周りから彼自身が「知の巨人(現代ではこの表現もだいぶ安くはなっているが)」に見られていることを承知しているから成り立つ技術であって、その逆を用いたのがヒトラーだ、というのもなるほどと思わせる。大衆に対しては絶対的な自信、絶対的な信念を主張することが有効だ、という技術で、これはアリストレスの「話し手は聞き手に信頼感を与えなければならない」という原則に忠実なわけである。しかしソクラテスのやり方もまたアリストテレスは「語り手はあらかじめ自分を批判しておくと語り手が自分のしていることに気づいていないわけではないから、彼のいうことは確かだろうと聞くものに思わせることができる」という原則に忠実なわけで、この二つは矛盾するように見えるが、要は説得する相手によって話し方は変えなければならない、ということであるわけだ。

現代のSNSなどで難しいのはこの辺りのことで、全体の主張は全体を読めばわかるけれども発言一つを切り取ってしまうと非常に不適切な発言に思われてしまうということがよくあるわけである。ここはまあ、全ての人を一度に説得するのは難しいということで、戦前の日本でもよく「顕教と密教」という言い方をしたわけだが、つまり「大衆向けの誰にでもわかるような言説」と「ある程度訓練を受けたエリートにのみ伝わる言い方」みたいなものを分けて考えるやり方は常にあった。

現代のSNSでは同じ人がアカウントを「光明面と暗黒面」みたいに使い分けたりしているが、まだその辺の技術は確立されたとは言えず、国際政治学の専門家が群がるいわゆる保守系のアカウントと斬った張ったをやっていて、その有り様を「怖い」と感じてしまう人ももちろんあるわけだけど、伝わるべき人に言いたことを伝えるための技術やメディアというのはなかなか難しく、結局は学びたい方がそれを選んでいくしか最終的にはないのだなとは思うのだが、それにしても伝える側の工夫もまだできるところはあるだろうなと思うところもある。まあデマアカウントも真摯な報道者もポエジーな感想も全てが等価のように見えるのがSNSの良さでもあり危うさでもあり、現状なかなかそれを超えられない、とまとめるしかないのだろうなとは思う。

この章の最後では「言葉を言葉として受け止める」ことの重要性について書かれていて、映画の場面で刑事がマフィアのボスのところに乗り込んでマフィアと死闘を繰り広げ、三人をあの世に送ったところでしれっとボスが現れ、「部下たちが失礼なことをしてすまなかった」とヌケヌケというと、刑事が「今度はこのような歓迎はやめてもらいたいね。洋服が汚れる」と答えるという場面について述べている。これはこうしたジャンルの表現に慣れている現代の我々から見れば当たり前のように見えるが、現実にこのようなことが起こった時にこういう冷静な対処ができるかと言えば難しいだろう。

また、1984年の大統領選挙で民主党のモンデールが共和党のレーガンの老齢を取り上げ、「若さと活力を必要とする政治に不適である」と批判したのに対し、レーガンは「私は年齢を選挙の争点にはしていない。またモンデール氏の知識と経験の不足についても争点にしていない」と答えて会場の爆笑を引き出し、これでレーガンの選挙における勝利を確信したという人もいたという話も触れられていた。このような返しのうまさはレーガンが「グレートコミュニケーター」と言われた一つの理由であるだろうけど、言葉を「全身で」受け止めて「年齢など関係ない!」と激昂して反撃したら白けたことは確かで、「言葉を言葉として受け止める」というのは自己を客観視して即座に当意即妙に言葉で反撃できるということだなと思った。少なくとも「この頭の回転があれば年齢は問題ないな」と感じさせるのも大したものだとは思う。

マンガのことなども書くことはないわけではないが今日はこの辺りで。雪は結局今のところ降っていないが降るかどうか心配する必要がないからタイヤを交換したことは正解だったと考えておこうと思う。

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