専門家の原理主義/物語を読む、世界を読む

令和3年も今日で10日が経過して、36分の1が過ぎ去ったことになる。年月はいつも初めがあれば終わりもあるので始まったと思ったら十日で十日分進むのは当然のことだが、歳を取れば取るほど一日も一年もあっという間に過ぎ去っていく実感が強い。

他の人の文章を読んでいると、その人が専門としている分野についての話は面白いし興味深いが、そこから外れた文章は読んでいてもあまり得るものがない感じがすることが多い。どの分野のことについても意見を言うのは自由だけれども、その知見については専門家の方が一日の長はあるわけで、説得力という点においては結局参考にするのはそちらの方になる。もちろんその著者がそちらの方に専門をシフトするほどその問題について取り組んでいるのであれば話はまた違うのだけど、自分の専門の分野について書くことの余技のように感想を述べて、「ぼくの考えた最強の○○政策」みたいなものを披露していただいても、なかなか同意することは難しいなと思うことが多い。

ただ今日読んでいて思ったのは、「専門家はその分野における常識の原理主義にハマりやすい」ということは言えると思った。それは例えば感染症の専門家が、感染症の分野における常識を強く主張することで、社会に対しては過大とも思える警戒感を呼びかけることになることなどがあるのだろうと思う。

しかし実際のところ、非専門家にはそれが過大なのかどうかを判断する材料がない。だから公開情報を駆使して反論を重ねるが、当然ながら専門家ほどの説得力を持つことはできないから、政治家もこれはやりすぎだと思ったらあるところで突然梯子を外したりすることになり、専門家は慌てることになる。新型コロナに関しては、尾身氏という政治的調整にも長けた存在があるから政府の突然の豹変ぶりにも手綱を経済重視派に自由にさせているように見せながら、国民の危機感が高まる感染状況になったら上手に主導権を取り戻している。

本来は、政府の専門家、国会議員になっている専門家ががもっと発言して議論をリードしていくべきだが、「先進国は感染症を克服したという幻想」に医師たち自身も囚われていたためか政治家に専門家がいない状況で、こういう事態に直面していくことは日本にとってはあまり幸福ではないことだった。

専門の話に戻ると、私自身の専門は何かと問われたときに、これがそうだと明言できるものは現在のところでははっきりとはない。修士を取ったのはフランス革命研究、つまり西洋史学だが、現在までずっと研鑽を続けているとは言えないので、現在はその専門家というには烏滸がましい状況だ。あと現実問題として一貫してずっとやっているのは学習指導・進路指導ということになるけれども、実践としては結局は一人一人に合わせてやっているので、誰にでも当てはまる一般論というのはあまり構築できない。ただまあ、これについてはいつかちゃんとまとめてみるといいとは思っている。

noteなどで書いていいねをもらえるものは大体はマンガについての記述なのだが、私自身は基本的に好きで読んでいるだけなので、自分の興味に応じた範囲のことしかわからず、それに完全に入れ込んでいるというわけではないので、専門としているとはとても言えない。あくまで「一マンガ好きの感想と意見」というものの域を出ない。

のっぴきならないものとして書くのはむしろ自己観察なのだが、自分については自分が最も専門家であるのは当然だけど、そこでの考察がどれだけ一般性を持ち得るのかということが確信があって書いているわけではないし、どれについても「曖昧なことを曖昧なまま」書いているという感じはある。

ただやはり、最も強く惹かれるものというのは、結局は「物語」だろうかと思う。マンガを読むのも結局はそこに物語を見出したいからだし、物語の奥に入り込んで内在的にその物語を追体験し、それを外からの視線で書き起こすというのが私の物語を読むときの方法論なので、それがうまくハマる時は多くの方に読んでもらえる場合が多い。

物語を読む、マンガを読むというようなことはまあ誰にでもできることだし、それをなるべく深いところで読むということがどれだけ人の役に立つことなのかまでは確信がない。文学研究というのはおそらく私がやっているようなこととは違うことだと思うのだが、彼らがやっている研究よりは私に取っては自分がやっていることの方が面白いことは間違いない。

結局のところ、先に書いたような専門性をめぐる話も、おそらくはリアルな世界におけるある種の物語を自分としてはどう読んでいるかという話なので、その妥当性は読む人によってかなり違ってくるだろう。

しかしただこれだけは言えるのは、「物語を読む」ということは原理主義とは最も遠い態度だということだ。現在進行しているもう一つの世界的な物語はアメリカの大統領の代替わり劇だけれども、「トランプを何が何でも悪とする」という強い原理主義の圧力を感じる。これは第二次世界大戦後の枢軸国を悪とするという強い原理主義的圧力と同様のもので、物語の微細な構造を読む努力を放棄し、自分がより安全な位置へ我も我もと奔っている滑稽な一幕劇がまた再生産されているに過ぎないように見える。

まあ考えてみると、私が結局一生やっていくのは、こういう「読み方」なのかもしれないと思う。世界をより動的に、ダイナミックに、活力のあるものとするための読みを、していけるといいのだろうなと思う。


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