諏訪大社下社・春宮と秋宮
昨日は朝、諏訪大社下社に参拝しようと思い立って出掛けたのだが、上諏訪はあまり雨が降っていなかったのに下諏訪に入るとかなりの降りで、それでも傘をさして春宮を参拝し、そのあとで万治の石仏を拝んで車に戻ったら急に土砂降りになり、秋宮に回るのを諦めた。
ということで今朝は秋宮を参拝してきたのだが、いろいろ発見があった。下諏訪は甲州街道・中山道が合流する、というか中山道に突き当たって甲州街道が終点になる宿場町だったのだが、中山道と甲州街道の合流点というのが自分の思っていたところと違ったということ。古地図を見ながらこの辺かと想像していたところとも違い、行ってみないとわからないことはあるなあと思った。またこの合流点から塩尻のほうに行く中山道の道の経路も思っていたところと結構違っていて、この辺も時間がある時に一度車で通るか歩くかしてみたいと思った。
秋宮は街中にあることもあって神さびた印象がやや薄く、俗っぽい印象があったのだが、今朝行った感じは以前とはかなり変わっていた。境内が以前よりしんとした印象が深まったのと、以前境内?というか隣接した場所にあった山王閣というホテルが廃業したことは知っていたが建物も完全になくなっていて駐車場になっていたのだが、その場所は本来大祝であり中世武将でもあった金刺氏の居城・霞ヶ城の跡地でもあり、源平時代の武将・金刺盛澄の銅像が建っている。これは山王閣時代からあったのだが、今は建物が取り払われているので駐車場の真ん中に建っているという感じだ。
そしてこれは山王閣時代には分からなかったのだが、この場所は実は下諏訪だけでなく上諏訪から岡谷、つまり諏訪湖周辺一帯を見晴らせる場所で、まさに支配者の王城にふさわしい場所だということが今日行って理解できたのだ。
金刺氏については今まであまり勉強してきていないので知らないことが多いのだけど、戦国時代に滅亡したくらいのことしか知らないし、上社の諏訪氏が鎌倉時代から文書が残っているのに比べると文書が失われているために不明なところがもともと多いようだ。由来についても今読んでいた「諏訪史蹟要項」の記述と「諏訪の神様が気になるの」での記述も異なっているので、いくつか読んでみないと分からないなと思った。
正直言って、近世大名として生き残った諏訪氏の方には関心があったが中世に滅んでいる金刺氏の方はあまり関心がなかったのだが、実際に居城跡に行ってみるとこの地を選んで社を作り居館とした人々の明というのは侮れないものがあるなと思ったし、滅ぼされたのちに有力な社家がなくなったためにでもあろう、宿場町としても繁栄したということの関係なども興味深いものがあり、もう少し調べてみないと諏訪の歴史が立体的に見えてこないなと思った。
というわけで、今日はかなり収穫を感じた。ただ、秋宮の前の駐車場の前にある公衆トイレが閉鎖されていて、ちょっと困った。四角に降りていく途中に公衆の多目的トイレがあって助かったのだが、秋宮前のトイレも開けておいてもらいたいと思ったのだった。
ちなみに諏訪大社の上社は前宮と本宮があり、前宮は中世の諏訪氏の居館もあった場所、本宮は江戸時代に神宮寺と共に発展した社。いずれも神体は山。下社は秋宮と春宮があり、これは神様が春には春宮に、秋には秋宮に遷宮することから来ている。8月1日に毎年お舟祭りというのがあって春宮から秋宮に移るので、今は春宮の方に鎮座在しましていることになる。
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