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内側の外部

 「内側の外部」という言葉が頭をよぎったことがある。
 確か、表参道の裏路地にあるカフェで過ごしていたときのこと。僕は確かに建物の内部にいるはずだったのに(ましてやそのカフェは地下にあった)、気分としては家や見慣れた空間で過ごすのとは別な「外部」にいたのだった。その僕の感じた外部のことを人によっては非日常(性)と名付けるかもしれないし、異空間と呼ぶ人もいるだろう。

 何か事の予感を漂わせるような、新鮮な空気を吸うような、少し先の未来に対する期待と不安が入り混じったような、体の中の回路が入れ替わってモードが変わるような。そんないつもと違う心持にさせる空間は、たとえ建物の内部としての空間であっても、自分がいつもと違う場所にいるような「遠さ」を感じ、日常から切り離された次元の違う平行世界としての外部を思わせる。

 内部の空間が外部へと変容して感じられることは、いつ何どきでも起こり得る出来事であり、何をきっかけとするかは定かではない。どういったところを訪れるにしても、初めての場所は慣れていないという点で外部を感じやすい。自分の中に周りが侵入してくるかのような感じで、気分のメーターの調節が容易ではない。自分はその空間の中にいる人々と比べて異邦人であるような、そんなよそよそしさを感じることがあるかもしれない。

 反対に、自分が何かを待ち望んでいたような感覚や、いつもの自分から解放され、新たな自己を発見するような肯定的な気持ちに包まれることもある。最初は疎外された感覚を抱いていても、時間が経つうちにその空間でくつろいでいることもある。多様な意味をもたらす外部が、少しずつ自分の中で浸透しはじめてリズムが合ってくる。

 また、「内側の外部」的な空間を意図的に演出している場所もある。劇場やシネマ、美術館、ライブハウス、ホテルなど。演劇、映画、絵画、音楽といったフィクションや、旅行のような普段の生活圏から離れて非日常を味わうこと、セックスといった秘匿性の高い営みなど、僕らは生きるうえで常に自分に変化をもたらす刺激を求めている。

 建築物が「内側の外部」的な空間を意図的に演出していたり、そんなつもりはなくただ造られているだけだとしても、結果的にある区切られた空間の内部を外部として感じるのは、僕らの心の作用が深く関わっている。おそらく人間にとって、その空間に入ることで非日常が侵入してきたり、その空間で過ごすことにより非日常を味わうことが、心に揺さぶりをかけて良くも悪くも慣れ親しみから離れた異空間を感じさせてしまうのかもしれない。内部として存在している空間を、ある種の箱や器のようにとらえて、無意識にもその中に自分の気持ちを注ぎ入れる。

 心持が空間の在り方に反映されるその様は、まさに意味や価値が生み出される瞬間であり、「外部」として感じることは、それまでに自分が体験したことのない新たな意味や価値の到来を予感しているのかもしれない。

 っとここまで書いてきてあることに気付いたのであった。結局のところ僕らがいとも簡単に区別している「うち」と「そと」は、何よって判断されているのだろうか。

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