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なんとなく虚無。「なんのために」氏の到来

ここのところ、虚無感が突然やってくることが多い。世間様ではいろいろ起きていますが、それで心を病むかというとまったくそんなことはなく。世の中どうしちまうんだろうと不安に思うことがないのに、不意に虚無がやってくるのである。なんだこれは、まるでエンデの『モモ』か。

先日、とくにその虚無を感じる出来事があった。
ある平日の夕方、急ぎの仕事が片付き、逃げるようにして郊外の喫茶店へ車を走らせた。薄暗い照明で落ち着いた環境の中、積読中の本でも読もうと思ったのだった。冷房の効いた室内で、クッションの良い椅子に腰掛け、広々としたテーブルを陣取り、ケーキセットを頼む。家から持ってきた積読本と店内に置いてある本数冊をテーブルに並べ、一つずつかいつまんでいく。浅くなった呼吸をふーーーっと吐き出しながら、コーヒーをすする。

ケーキを頬張りながら本をめくっているとき、突然ゾワゾワっと虚無がやってきた。

「あれ、俺の人生って毎日パソコンとにらめっこして、文章書いて、ランニングして、本読んで、たまに映画館通って、喫茶店行くってだけで終わるのかしら…」

人によっては「何?その満ち足りた生活は」と思われるかもしれない。それで不満あるの?って言われるかもしれない。

今の仕事に不満があるわけではない(もちろん、労働環境や生産性はより良いものにしていこうと日々改善)。むしろフリーになって超不安定ななか、少しずつ仕事も増えてきて、それなりの評価もしていただけるようになってきて、徐々に波に乗ってきているなという感じだ。謙虚さと誠実さとスピード感を意識しながら仕事している。

そんな仕事と並行して、忙しかろうが暇だろうが、日々マラソンに向けてランしたり、本読んだり、映画見たりと好きなことをしている。喫茶店やカフェ・バーだって、仕事したり仲間とだべったりするためにほぼ毎日通っている。

それらそのものに不満があるわけではない。
たぶん、そのルーチンにちょっとした違和を感じてきたのだろうと思う。それだけで1日・1週間・1か月と過ぎていくことに空虚なものを感じてきたのだろう。そう、人を惑わすあの問い、「なんのために」さんがやってきてしまった。

「なんで同じ毎日繰り返してるんだっけ。なんのために同じルーチンで生活しているんだっけ。これ一生続くのかな」

なんてボヤって思った瞬間に訪れた虚無。なんだかすごくゲンナリして、さらには怖くもなってきた。とくに今年は環境の変化もあってかあっという間に時間が過ぎ去っていった。気がつけば7月終わるじゃん。

ルーチンは心穏やかに過ごすためにも歓迎すべきものだと思うのだが、かえってそれが自分を不安にさせている。そんな気がする。

そうやって虚無がやってきている最中に手に取った一冊の漫画。

益田ミリの『スナック キズツキ』。
喫茶店に置いてあったものを、ほんとに何気なく手に取った。
1ページ1ページと開くごとに速度は上がっていき、一気に読み通していた。

そうだよな。自分だけじゃなくて、今生きているみんな「なんだかなあ…」って思いを抱きながら毎日過ごしている。そんな人たちがウジャウジャしていて、なんらかの瞬間に関わりを持ったりしている。

そんなときにふらっと、自分が素でいられる場所、自分と向き合う場所、また訪れたいなって思える場所をいつの間にか見つけて、そんで通っているのかも。そんな居場所をみんな持っているのだろう。

自分に訪れた虚無が除去されるわけではなかったけれど、その漫画を読んで「ああ、明日も生きれるなあ」と思った。モヤモヤに対して肯定も否定もなく、性急に解決策や救済策を繰り出すわけでもなく、「そんなこともあるよね。ま、お茶飲もう」とスッと心に隙間をつくる。スナックのママであるトウコとお客さんの距離感の絶妙さ。ああ、トウコになりたい。

読み終えたとき、スッキリとまでは行かないが、落ち着きを取り戻していた。そのあとに体に染み入るコーヒーの酸味と香り。深呼吸をしてより心地よい香りに満たされた。

それから数日、「なんのために」氏はとくに姿を現すことはないが、虚無未満のものがざわっとやってくることがある。まあ、それはそれとして「何かに飽きろ」というサインなのだろうと受け止めている。

おそらく、この虚無感は毎日蒸し暑く天気の変わりやすいこの季節のせいなのだろうと思っている。自律神経がいろいろいじられているのでしょう。汗が滲む温かいご飯を食べているうちに元気になってたりする。無理に虚無を除去せずとも、あったかい飯食って元気になるのならそれでいいやと思っている今だ。



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