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そうだ、あのときの僕は「植物癒し」にいて欲しかったんだ。そして、今の僕は「植物癒し」になりたかったんだ

10年前のあのとき、この本とめぐりあえていたら、どれだけ自分の心は救われていただろうか。そう思うと同時に、あのときの経験がなければ、僕はこの本を読んでこうも思わなかっただろう。そんな読書体験だった。

『植物癒しと蟹の物語』という本を読んだ。たまたまnoteで読書感想文の企画を見つけ、いろんな課題図書を流し見しているところ、その不思議なタイトルが目に入った。失礼ながら書き手の小林大輝さんのことも、発行しているコトノハ株式会社のことも知らなかった。大手出版社の本が名を連ねているなかで見つけたこの本と出版社。タイトルに惹かれ、これも何かの導きと感じてさっそく本屋に行って探してみるが、僕の暮らす宮崎市内の本屋にはどこにもなく、ネットで取り寄せたのだった。

10日ほど待って届いた『植物癒しと蟹の物語』。満を持してページをめくり読んでみると、その大きな物語に包み込まれてしまった。僕は今「大きな物語」と表現したけれど、スケールの大きいという意味ではなく、言葉の一つ一つの隙間や余白がとても大きいという意味で。その言葉たちのなかに自分の生きてきたこれまでの記憶を注いで、この物語と自分の記憶を二重に追体験しているような、そんな感覚になった。そんな感覚はかつて読んだ『星の王子さま』以来。自分のそのときの気分や、生きている年齢で読んだときに受け取る「こたえ」も変わってきそうな、そんな本だ。

最初はまったく感想文として残すつもりはなかったけれど、読み返しているなかで、僕の10年前の記憶がぐっと蘇ってきてしまった。その途端、言いようもない寂しさや孤独感も一緒に蘇ってきた。それをここで書くことで解消したいと思った。

許されるなら、ここでちょっと自分語りをしたい。僕の話を聞いてくれる植物と植物癒しさんに向けて。

僕は10年前の23歳のとき、大学を卒業したと同時にひきこもりになった。しかも一人暮らしのひきこもり。就職活動を途中で放棄し、大学卒業のタイミングでアルバイトも辞めていたため働くこともなく毎日アパートにこもっていた。生活費はアルバイトで貯めたお金と、実家からの仕送り。それが自分にとっては引け目を感じることもあり、今でもこの時期のことを語るにはちょっとした勇気がいる。

ひきこもった理由はいくつかある。
生来抱え、騙し騙しなんとかやってきていた対人恐怖症が、ここへきてピークをむかえたこと。就活に疲れてしまったこと。就職が決まらないで卒業したことで生活に対する不安が一気にのしかかったこと。学生という「属性」が消え、サラリーマンでもない自分がいったい何者なのかわからなくなってしまったこと。

心がすり減ってしまっていて、外界を遮断していた。それでも毎日頭のなかは言葉がめぐり、考えが生まれ、言いたいことで溢れていく。でも、それをどこに吐き出していいかわからず苦しい日々だった。たまに会う友人や兄弟には、今の生活を責められるのではないかという思いからずっとオドオドしていたし、いったん口を開くとそれまで溜まった言葉たちが溢れるように出ていってしまって彼ら彼女らを困らせていた。

毎日がずっと同じ「毎日」で、自分が何者なのか、どうしたいのかわからず、このまま消えればどれだけ楽かと思ったことだってあった。朝食のパンを泣きながらかじったのは今となってはいい思い出だ。体は健康なのに働いておらず、社会のために貢献せず、いまだに実家のお金を当てにし、どれだけお金を消費しないようにするか気を張り、1日の大半は寝るか読書かネットサーフィン。日々生きている自分が惨めだった。悔しかった。なんで生きているのかわからなかったし、何かをすることで、何かと関わることで、自分が生きる理由、ここにいていい理由を探していた。そんな生活が1年以上続いていた。

でも、『植物癒しと蟹の物語』を読んだ今になって思うのは、僕は僕自身の存在理由を必要以上に求めすぎていたのかもしれない。それはある意味で当時の自分の自信のなさの裏返しだとも思うけれど、同時に僕は誰かに自分が「ここにいていい」ということを言って欲しかったのかもしれない。そして、何も言わなくていいから、誰かにそばにいて欲しかったのかもしれない。寂しくて孤独だったんだ。

僕は10年前のあのとき、自分をそっと見つめ、自分と対話するスイッチになる「植物」や、そっと耳を傾け声を聞いてくれる「植物癒し」にそばにいて欲しかったんだ。そして、そんな存在が実はいたのかもしれないが、そのときの僕は気づけなかった。おそらく、そんな存在がいなければ今の僕は元気に日々を生きていなかっただろう。10年の時をちゃんと感じることだってなかっただろう。僕はその存在にありがとうとも言えていない。

あれから10年経った。いろんな出来事を経験した。そのたびに泣いたり、思いっきり笑ったり、いろんな感情を蓄えてきた。心はいっこうに強くはならないけれど、そのかわりにいろんな経験を通じて、強いこととは別軸で、心は育ってきたように思う。そして、誰かの心に寄り添えるようにもなってきた。かつての僕に誰かがしてくれたように。

10年前のひきこもりの記憶は、ある種僕にとっての「蟹」のようでもあるのかもしれない。でもその蟹がいなければ僕は自分の辛かったことを記憶に留めることができなかっただろうし、誰かの心に寄り添い、その声にじっと耳を傾けることをしようとも思わなかっただろう。

時はめぐりめぐって、僕は今ライターという職業に就けている。10年前のひきこもり以降、リハビリのように言葉を紡いでいるうちに、誰かの目に止まり、いつの間にかそんなことになった。僕は「書く」ことが仕事であるとともに、人の話を「聞く」ことも仕事になった。この本を読んで自分に問うのは、僕はちゃんと耳を澄ませているだろうか。僕はちゃんと心の声を聞こうとしているだろうか。僕の心は、相手とちゃんと呼応しているだろうか。人の話を聞くというのは、言葉を聞くだけでなく、その人の記憶や心を聞くことでもある。僕はそのとき、ちゃんとそばにいるだろうか。

そうして思うのは、今の僕は「植物癒し」のようになりたいのかもしれない。誰かの語る人生にただ耳を澄ませ、語り手とは異なる他者へ「こういう物語があったんです」と翻訳作業をする。実はその過程のなかで、僕は自分の心の植物に触れ、自分の声を聞く作業をしていることにも今気づいた。そうだ、誰かの「植物癒し」であることは自分にとっての「植物癒し」でもある。

この本は、僕にいろんな気づきを与えてくれた。まるでこの本自体が、自分と対話をするための植物であり、植物癒しでもあるような。そして、蟹の存在を思い起こしてくれた。

はっと何かを思い出すたびに手に取りたい、ページをめくりたい。そんな本と出会えて良かった。さらに10年後、この本を開くとき僕は何を見るのだろう。

#読書の秋2021 #植物癒しと蟹の物語

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