季節を渡る

 朝、いつものようにコーヒーのテイクアウトをしに街の交差点に立つ。日差しを嫌い、人々はアーケードの影に隠れて自らの影を消す。自分の影をつくるかつくらないかで、そのときの快・不快とその日一日を頑張れるか否かが変わってくるらしい。そりゃそうだ、ここのところ宮崎にしては珍しく快晴が続き一カ月以上の猛暑日。みんな一日を波風立てずにやり過ごす処世術を身に付けている。そして、みんな交差点のいつもの定位置につくのである。
 
 僕はあんまり日差しと日焼けを気にしないので(だって、たかだか交差点で歩を止めるのは90秒程度だ)、横断歩道にほど近い街灯のそばで突っ立つのが定番だ。

 街灯と自分の伸びた影を根っこから先端にかけて目で追っていく。両方とも細く長い。そのときあることに気付いた。影の進む方向と長さがいつもと違っているのだった。そういえば、暑くない。太陽の眩しさは相変わらずで目を細めてしまうけれど、陽の光の肌触りは心地良くなっている。影の位置がずれていることによって、周りのみんなの定位置も少しずれているのだった。少しずつ少しずつ定点がずれているから、人々の立つ位置も移動していることにこれまで全く気付かなかった。

 季節のまっただなかにいるときは、その季節が未来永劫ずっと続いていくような気になってしまう。しかし、どれだけ暑い日々を過ごしていようが少しずつ季節は変化していく。毎日同じような朝と昼と夜の枠組みのなかで、太陽の昇り降りのなかで、雲が絶えず流れていくように季節は常に移動を続けている。寄せては返す波のように同じリフレインの続く毎日ではあるけれど、これまた寄せては返す波のように一つ一つの内容は同じように見えて実は違っている。

 毎日自分は同じ自分でいるつもりだけれど、季節が常に動いているように自分の時間も常に流れている。それを象徴するかのごとく髪や爪や髭は毎日伸びていく。時間が経ったら腹が減るし疲労が溜まって眠くなる。そしてまた朝を迎える。鏡の前の自分は昨日の自分と寸分の狂いもない気でいるが、毎日顔写真を撮っていったらどうだろうか。時間の変化に気付く前に、横断歩道の向こう側にいるサラリーマンたちと同じ位置にいそうだ。

 信号が青になり、秋の気配を感じながら横断歩道を渡っていく。なんとなく、こだまするエンジン音の聞こえ方が変わってきた気がする。そして、人々の歩く速度も。これはもう、渡りきったころには既に秋になっているかもしれない。

執筆活動の継続のためサポートのご協力をお願いいたします。いただいたサポートは日々の研究、クオリティの高い記事を執筆するための自己投資や環境づくりに大切に使わせていただきます。