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橋を渡ること(宮崎の片隅のランニング日記 9)

第9回 10.02km Running(2022/03/09)


疲れていてもランニングって楽しいものです。何で疲れているのかにも因るのでしょうが。僕の場合は仕事の疲労といえば圧倒的に頭なことが多いので、走ると心身ともにスッキリして、肉体的な疲労が心地良く感じる。それが事実として体に良いかとか、脳内物質に騙されてるとかは置いといて。疲れを別の疲労によって相殺するというか。

だから仕事終わりのランとか、仕事が残っていてもそれに取り掛かる前にランとか、あるいは夜の21時を過ぎてからのランとかって意外と気持ちいい。気候も暖かくなってきているから夜だって厚着をする必要がない。下は短パンでひたすら駆けていくだけ。

今日はひたすら夜の街を突っ切る。まん防開けの夜の街の姿を見たくなって。

一応、3月7日から通常に近い夜営業がOKになった宮崎。酒屋の配送車が行き交い、タクシーの車列が路肩に並び、代行の車が1台、また1台と走り去っていく。そして千鳥足で歩くサラリーマン。すれ違うリーマン2人組みから漂う酒臭。そんな光景は久しぶりだ。え、いつからまん防だったんだっけ? って感じだ。3週間の規制がもう2週間?3週間?延びたんだっけ。

平日だからか、確かに21時を過ぎても車の量はまん防期間よりも多いけれど、客はもういないところが多いようだった。客足が戻るにはまだまだかかりそうだ。

そんな街の様子を体にしまいながら、南下していく。目の前には宮崎市役所、そして大淀川。ここまで来たら橋を渡りたくなるのがランナーたちの性(さが)。ぐんぐん加速して、大きな橋に足をかける。そんで大きな川を渡っていく。

昔の記録によると、橋ができる前、橋ができて車が主流になる以前は、船で北岸と南岸をつないでいたようだ。そのときに大淀川を渡る人たちの目にはどういう景色が映っていたのか。橋を渡るよりも圧倒的に目線は低く、向こう岸へ辿りつく時間も、車より圧倒的に長い。その時間の中で、現代人とは違う情緒を感じていたんだろうなあ。

それは自分の足で橋を渡っていく人たちも同様に、今僕らが橋を歩いて(あるいは走って)渡るのとは違う感じ方をしていたんじゃなかろうか。橋の材質だって違えば、足裏に感じる感触や体全体が感じる重さや疲労が異なるはず。橋のつくりだって、今のようなアーチ状ではなかったかもしれない。そうだとしたら、目線の先のずっと向こうに向こう岸の景色が見えるわけで、その距離感といったらどんな感じだったんだろう。「向こう」が今以上に遠く感じられたかもしれない。

とはいえ、今世の橋から見る大淀川の夜景も結構アタシは好きですが。というか、橋を渡るって一種のロマンを感じる。「あちら」と「こちら」の「あわい」を行き来しているって冷静に考えるとすごい。もともと足で行けなかったところに橋っていう彼岸同士を、違う世界の土地同士をつなげる装置が発明されて、渡ることができるようになるってヤバいよね。

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「橋」って言葉やその存在が、いろんなメタファーとして好んで使われる理由もわかる。みんな好きよね〜。まあ僕も好きなんだけど。

一度彼岸へ行って、そちらの土を踏み締めたあと、また橋を渡ってもといた岸辺へ戻っていく。その行き来って、同じ橋を渡っていても見える景色がまったく異なるからおもしろい。

橋が通勤経路とか日常の散歩コースにある人たちがちょっと羨ましいなあ。

あ、当然それは車なんか使わずに、自転車や徒歩で橋を渡っていく人たちね。

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