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暴力とヴァルネラビリティについて

“自分の中に潜む純粋な攻撃性、暴力性をどう制御できるか技術的な工夫をしたことがない人間(自分を「つねに正しく、善良であるがゆえの被害者」だと思っている人間)は暴力を制御できません。”
(内田樹氏のツイッターより)

 かつてNPO法人に勤めていた。そこでは主に若者層を中心として自立支援や中間的就労支援、コミュニティ支援などを行っていた。ひきこもりやニート、障害者、生活保護者など世間一般からはマイノリティだと思われている人々とたくさん出会ってきた。困っている人、とくに社会的弱者とされる人々の支援活動に従事なんてしていると、いくつもの矛盾に突き当たるものである。

 また、2年前に報道された下関市の知的障害者福祉施設での虐待事件、そして、昨年起きた相模原市の障害者施設殺傷事件を思いだしてみると、支援していた対象が違えど、支援する側の人間として他人事ではないものを感じていたので、ここに思うことを記す次第である。

 最初に極端な結論を書いてしまう。
 
 自身の暴力性に自覚のない者が支援活動をしてはならない。

 「支援活動」なんていうと、自然とそこには「支援するもの‐支援されるもの」の関係がうまれ、その関係は自然と非対称的になることが多い。同格で対等な関係ではなく、支援するものが上、支援される者が下、という関係が自然と成り立ってしまう。
 支援者は意外と自身の関係性に無自覚でいることが多々ある。そしてなにより、自身の暴力的なところに気付いていない者が支援活動をしているケースがある。
 
 僕らがとりあえず一般的に「弱者」という名を与えている者たちは、一種の弱さを発している。その弱さのことを「ヴァルネラビリティ(Vulnerability)」と呼ぶ者もいる。ヴァルネラビリティとは、一般的には「攻撃誘発性」と訳されるもので、具体的には「いじめやすさ」「傷つきやすさ」のことを表す。

 赤ちゃんや幼児の可愛らしさと弱々しさ、クラスに必ずいるなんだかムカツクやつから発せられるオーラ、精神障害者の意味の分からなさと気持ち悪さ、ホームレスから漂う悪臭や汚さ、外国人の日本人とは違う身体や雰囲気などなど、あらゆる人々から僕らはヴァルネラビリティを感じとっている。

 僕は支援をしていた側の人間であるが、清廉潔白な人間ではない。むしろ、フツーに暴力的な感情や思考に満ち満ちている。それは昔から変わらない。
 犬や猫といった動物、赤ちゃんや幼児と接しているとき、愛でたいほどに可愛いものを感じながらも、よく分からないけど殴りたくなる気持ちが湧き上がっていることを自覚するときがある。相手が言うことをきかないときはとくにそうだが、そういった感情的なものではなくて、殴りたい衝動や欲動のようなものがある。
 
 そしてその欲動は、フツーの人々から障害者や外国人にいたるまで、他人であれば出会う誰しもに抱いている。それは相手が無抵抗であればあるほど、そして共通の地盤や度量衡がなければないほど強く感じるものである。
 
 実力行使に至ることはほとんどないが、頭の中ではフツーに暴言を吐きまくっている。僕と付き合いの長い人たちは、僕の口が相当に悪いことを知っている。

 でも、だからといって僕はこの自身の暴力性を切り離すことは絶対にしたくないと思っている。タブー化して見ないことにするのは簡単だが、それでは無知と無自覚を助長するだけである。絶えず自分の暴力を見つめること、暴力を抱え矛盾の中に生きること、暴力的な自分とそうでない自分を絶えず往来すること。
 そうすることでしか自身の暴力は制御できないし、暴力そのものを理解することもできない。

 そして、忘れてはならないことがひとつ。

 かくいう僕自身も、ヴァルネラビリティを発しているひとりにすぎない。

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