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母といえば思い出す大根のカレー

カレーは自由な食べ物である。
それはなんとなく子どものころから感じていた。

とりあえず具材は何を入れてもOK。炒めて、煮込んで、市販のルーを入れて。あとはグツグツとルーの味を染み込ませればOK。それでいてだいたいおいしいのだから、幼いころは夕食がカレーと聞けばその日一日がハッピーに終わっていくことは間違いなしだった。

しかも、カレーってやつは、自由でありつつ壮大でもあった。親や大人の手を借りずに、兄弟や近所の友人たちと一緒に初めてカレーをつくったときの喜びは凄まじいものがあった。冒険心と探究心が満たされ、僕らはこんなおいしいものを子どもたちの手でつくりあげたんだ! というRPGゲームを制したのと同じ達成感。そうだ、まさにあの体験は『キテレツ大百科』の主題歌と同じ心持ちだ。

高揚する気分、達成したあとにやってくる疲労。そんな気持ちで食べたカレーは最高においしかったのを覚えている。

カレーといえば、そのつくる人の個性や家庭の色が強く表れるものでもある。家で慣れ親しんだカレーが、世界中のどこの家でも同じカレーだと思っていたのも束の間。友人の家でカレーをご馳走になることがあると、その狭い世界がガラガラと崩れていく。

なんだこの旨さは! なんだこの具材は! なんだこのルーのとろけ方は! うちのと違う! 

そんな体験を通じて、自分の家のカレー、つまり母や父がメインでつくるカレーのことを客観的に見るようになるのであった。

母がつくるカレー、父のつくるカレー。その2つのカレーは同じ市販のルーを使っていても、まったく異なるカレーが出来上がっていた。

父のつくるカレーはどちらかというと繊細だった。細やかに刻まれた野菜や肉。そして正確に測られた水、丁寧にとられた灰汁。細部に気を配っていたそのカレー、実は母のつくるカレーよりもおいしくて好きだった(母の名誉のために補足すると、決して母のつくるカレーがまずかったわけではない。こんなことを書くと、なんて恵まれたこと言ってんだって喧嘩売ってる感じでもあるが)。

母のつくるカレーはなんというか豪快だった。具のサイズも大きく、母なりのこだわりはあったのだろうが、父とは異なり繊細さは発揮していなかったように思う。とりあえずピーピー言うてる子どもたちに飯を食わすことを第一目的としたカレー。その具材もバリエーションに富んでいた。

玉ねぎ、じゃがいも、にんじんなどの鉄板はさておき、冷蔵庫に眠っているあらゆる野菜が片っ端から入っていた。普段から野菜重視のお皿が食卓に並び、野菜を食べさせることを重視していた母からすれば、カレーという手段は便利だったのかもしれない。カレールーを入れてしまえば、なんだって「カレー」になってしまう。苦手な野菜があっても平らげてしまう。

そんな母のつくるカレーをある意味“騙され”ながら食べていたが、とりあえず僕自身も「カレー」を食べているつもりだったので、そんなに味を気にすることはなかった。だってカレーだし。ご飯にかけてもりもり食べれるし。

しかし、そんな僕でも、子どものころ母のつくるカレーで解せぬことが一つだけあった。

それはカレーの具材に大根を入れた「大根カレー」が食卓に出るようになったことだ。

覚えているのは10歳になるかならないか、だいたいある程度物事の分別がつくようになってから、にんじんやじゃがいもの如くコロコロと大根がカレーに使われるようになった。

カレーだ! と期待してスプーンを口へ運ぶ。そのとき口に広がる、いかにも「大根!」と主張してくる風味。その歯応え、匂い、溢れ出る汁ときたらもう。絶句、絶句だった。まったくカレーの味に浸食されることなく「俺は大根だ!」というアイデンティティを貫く大根。それが当時の僕には許せず、解せず、そして長いことトラウマにもなっていた。

そんなこともあり、中高生にもなると、「うちのカレー、大根が入ってるんだぜ」とネタにするようにもなっていた。珍しがる同級生も多く、案外大根はカレーに使われていないのだなとそのときは感じていた。

トラウマだったこともあり、大人になってからもカレーの具材として大根を入れることは強く拒んでいた(今度は大根の名誉のためにひとこと言っておくと、大根そのものは好きである。とくにおでんとブリ大根は最高。ただ、カレーに大根が解せぬという話)。

しかし、30代にもなってくると日々口にするものに気を配るようになり、健康のことも考え、野菜を積極的にとろうというスタンスになってくる。そして、あれだけ豪快だと思っていた母がつくっていたようなカレーを自分もつくるようになってくる。自炊が面倒くさくなったとき、それでも一手間加えたいときは、なんでもかんでも鍋にぶちこんで、煮て煮て煮まくって、カレールーを混ぜ合わせる。やってることが母に似てきてしまうなんて、嗚呼、これが大人になることか、なんて感傷的にもなる。これが親子か、なんて。

まだまだ春になりそうにもなく、凍えそうに寒かった2月の中旬ごろ。スーパーで大根を目にしたとき、ふと大根カレーのエピソードを思い出した。
今では子どものときのようなこだわりはなく、大根を入れたカレーもいいなと思えてきた。なんなら自分でつくってみるかと。

具材に大根を入れたカレー。実においしそうである。器が欠けているのはご愛嬌

そうして完成したカレーライス。
ざっくり切った大根をふんだんに使った。
その味はどうだったか。
実に大根の主張は強かった。
大根は大根だった。

大人になって感性や味覚が変わったとはいえ、やはり大根は自らのアイデンティティを見失うことはなく、信念を曲げることもなかった。
かつての思い出が美化されることもなかった。少しは期待したのだが。

だけど、そんな味もだいぶ許容できるようになった自分がいる。
こんな風味もありか…と。

なんだかんだ、一晩寝かせて翌日食べたカレーは、大根を含めたありとあらゆる具材が溶け合って、豊かなハーモニーってやつがそこにはあった。要するに、すごくおいしかった。

いずれかはわからないが、僕も子どもに大根のカレーをつくるときがやってきてしまうのだろうか。そのときは子どもにめちゃくちゃリスペクトされるような、そんな大根のカレーをつくってみたい。今から修行しなきゃ。


#カレーにこれ入れる


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