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【映画批評vol.1】人生を変えられた映画がある『あの頃、君を追いかけた』

  向乃が小説家を志望するようになったのにはきっかけがある。それこそが今回紹介する映画「あの頃、君を追いかけた」の視聴にあった。

 あれは中三の春、向乃は衝撃を受けた。ただ、この時見たのは、厳密に言うと今回紹介するリメイク版ではなくて、原作にあたる台湾版なのだ。そう、今回のnoteの趣旨は、向乃の心を揺るがした台湾版をリメイクした日本版を徹底批評(非難?)することだ。

 初めに言っておくが、向乃は台湾版、日本版合わせて35回以上は見ているし、日本語翻訳版の小説も繰り返し読んでいるから、ケチをつける権利はある!

【ネタバレを含みます!注意してね!】
ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ   ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ  ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ


あらすじ

「おい、急げよ」「花嫁が待ってるぞ」
高校時代の同級生に声をかけられた、主人公・水島浩介(山田裕貴)。浩介は、十年前の高校時代を思い返す。友人たちと悪ふざけを続ける浩介に手を焼いた担任は、ある日浩介を、優等生である早瀬真愛(齋藤飛鳥)の前に座らせる。幼稚な浩介と、大人びた真愛。初めは互いに馴染めなかった二人だったが、次第に恋に落ちていく。しかしある日決定的にすれ違ってしまい、そこから疎遠になってしまう。そうして大人になった浩介のもとに、一本の電話がかかってくる。それは、真愛が結婚するという知らせだった。

 原作にあたる台湾版は、小説家ギデンズ・コー氏の大人気小説をもとに、コー氏が自らメガホンをとって映画化したものである。また、小説及び映画の内容は、コー氏自身の十年の恋愛体験を描いた実話である。台湾版公開から7年が経過し、日本でリメイク版が上映された。

↑日本版予告↑

個人的評価

★★★★★★★★☆☆(8/10)

良いところ

①大まかなストーリー

 原作が面白すぎて、それをもとに映画を作っているのだから、映画として大コケしている印象はない。台湾版でグッときたシーンが、7年経って進化した映像技術によって、よりよいディスプレイで再現されていると考えるだけで見応えがある。ただ、もしかしたら台湾版を未視聴の人は分かりにくいところがあったのかもしれない。加えて、正直リメイク作品として、これが一番の長所として挙げられている時点でお察しかもしれない。原作再現はそれはそれで素晴らしい試みだとは思うが、せっかくなら日本版ならではの演出を、もっと加えても良かったのではないかと思う。詳しくは後半。

 原作のストーリーのどこが魅力的なのかについては、原作のほうの批評をする機会があったときに解説しようと思う。なぜならそれは厳密に言うと、日本版の功績ではないからだ。

↑台湾版予告↑

②作品全体の雰囲気

 すごく抽象的なんだが、作品全体の雰囲気にはかなり気を使ったんじゃなかろうか。

 向乃は映画製作に関しては全くの素人だから分からんが、照明やカメラワークが素晴らしかったと思う。その結果、どのシーンを切り取っても絵になるというか、何でもないシーンまでもが美しく見える。本作は大部分が主人公・浩介の回想であるわけだが、実際に自分の青春時代を脳内に映し出したとき、これくらい美しくデフォルメされるのだろうなと少し感傷的になった。(青春時代を思い出すと心が塞がる諸君には本当に申し訳なかったと思っている)

 こういう視覚的な部分に力を入れている映画はストレスなく観れる点で、内容問わずリピしたくなるし、予告編を観るだけで世界観に引き込まれるといった特徴がある。まあその分、ストーリーの密度へのハードルも高くなるんだけどね。

③アクション

 この記事は恋愛映画の批評で間違いありません。お使いの端末は正常です。

 今作のクライマックスともいえる、浩介と真愛とのすれ違い。そのきっかけとなる「異種格闘技決戦大会」。ここのアクションは結構頑張ってたと思う。台湾版のほうが、映像効果を駆使している感があったり、主人公の格闘技好きを受けてデンプシーロールが炸裂したりとコミカルなんだが、日本版も悪くない。特に浩介が序盤、余裕感を醸し出しているところが日本版オリジナルの演出だったけれど、倒されたときの間抜け感、真愛が感じたであろう失望、そういうものがより感じられて良かった。

↑アクションちょっと見れます↑

④歌

 音楽はかなり良いと思う。先述の雰囲気づくりにも大きく貢献しているのではなかろうか。主題歌を歌っているのが

秋元康の息がかかった(by DJふぉい)

バンドであったのは気になるところではあったが、彼らが歌った主題歌「言えなかったこと」はとても好き。さらに、主人公が新郎に熱烈にキスをするシーンで、台湾版の主題歌がメロディーで流れたのはかなりグッときた。

↑主題歌PV↑

良くないところ

①台湾の昔の作品をリメイクするという意識が低い

 芸人・ナイツ塙は「しくじり先生」でこんなことを言った。

真理を理解せずに影響を受けるのはやめよう

「しくじり先生 俺みたいになるな!!」より

 今作は台湾版の脚本を踏襲している。リメイクするにあたっては当然なのだが、実はここに問題がある。具体的には、原作・台湾版の舞台設定が1990年代から2000年代の台湾であるのに対し、リメイク版の舞台設定は2010年前後の日本である。だから本来、原作の脚本を現代風にアレンジする必要があるのに、あろうことかそのままになっているシーンが結構あった。

 例えば、浩介と真愛が初めてデートをするシーン。台湾版では当然台湾で撮影されているのだが、なぜか日本版も、このシーンだけ台湾で撮影された。

何で?????

 初デートでいきなり台湾に行ったことにしたいのか?いや、多分そこまで考えられていない。単なる原作リスペクトを最優先した結果、物語としての整合性が失われた。江ノ島とかで良かったじゃん。

 ↑問題のデートシーン↑

 他にもある。受験後、海に行くシーンだ。台湾の大学は9月スタートだ。だから台湾版では受験が終わってから海行くのが成り立つ。でも日本の受験は冬だよねえ??じゃあ何で受験から入学までの時期に海に行ってんのかなあ??何で受験に失敗した真愛を慰めに行く浩介が半袖なのかなあ??舞台設定を変えてるのに、見栄えがいいシーンをそのまんま持ってくるから、こういうことが起きるんだよ。

 これが、場所を考慮しなかった例。次に挙げるのは、時代を考慮しなかった例である。

 主人公とヒロインが接触するきっかけは、主人公の学校での悪行がきっかけで、優等生であるヒロインの前に、席を移されたことだった。

 台湾版では主人公と友達が授業中にシ○ってるのがバレて席替えさせられる。まー当然よね。でも日本版は主人公が天パで(これは台湾版の映画ではカットされてたが原作小説にはあった内容なのでgood)厳しい校則を設けている学校側に、天然パーマ証明書の提示を求められながらそれをしなかったことが原因で、『今日一日壁向き』を命じられる。つまり、壁を向いて座れってことだ。

今日一日壁を向いて座れ?

 ちょっと向乃には耳馴染みのない罰なんだよなー(現代に実在するなら教えてくれ)。その後、違う先生から「普通に座ってくれ。こっちがやりにくい」と言われる。で、その流れで浩介は「あ、そうだ。ここ(真愛の前の席のやつ)と替われ。早瀬、こいつの勉強の面倒見てやれ」と言われる。いや、ありえないじゃんか、そんなこと。ここは、破天荒な主人公と優等生なヒロインが初めて接触する超大事なシーンであるわけ。それなのに席が前後になるまでのプロセスが雑すぎる!!

 つまり、現代という舞台設定においてはあまりピンとこない罰を課され、少なくとも現代の学校ではあり得ない席替えが行われる。そこに問題がある。

②擁護できない下品さ

 まず全体的な「高校生男子」の解像度なんだけど、これがとにかく低い。これだけ男子高校生の悪ノリを前面に出してくるなら、もっとリアルに描かなきゃだよね。演者たちは各所で「学生時代、こんなやつ一人はいたなあって思います」みたいなことを言うんだけど

こんなやついねぇよ!

 向乃自身がリアルDKだから言っておくけど、いくらバカな男どもでもお互いにカンチョーし続ける時間なんてねえから。

 これに付随して、作中の重要キャラ「すぐ勃○するマン」(向乃命名)にもケチをつけたい。その名の通りアソコが敏感で、すぐ元気になってしまう愛くるしい少年が登場する。

 これを論じるうえで、2作の作風の違いに言及したい。台湾版はいい意味でしょうもない。男子の悪ふざけも作風にマッチしてるし、多少下ネタを放り込んだところで作品の雰囲気がぶっ壊れない。対して日本版は基本真面目。先述の授業中鬼シ○リパートは全カットされていた。じゃあ勃○ボーイもカットかなあとか思ってたらなぜかこのキャラは採用されていた。結果、他の下ネタは徹底的に削ったのにこの強烈なキャラだけが残り、それが不協和音となって視聴者に不快感を抱かせる。

 他にも浩介の家では、浩介と父が全裸で過ごしているという設定がある。これも、台湾版では面白く見えたが、日本版の雰囲気では異常者に見えた。浩介の奔放さ、何より作品としての奔放さを日本版は欠いているのだから、この自由気ままな家庭環境との相性が絶望的に思える。

 制作陣は、自分たちが今作をリメイクする過程で、原作の馬鹿馬鹿しい雰囲気を消して、極めて邦画的な恋愛映画に作り変えているという自覚を持つべきだった。リメイクするにあたって作品の雰囲気が変わることが悪いのではなく、それに合わせて元の設定をアレンジできていないことが罪深いと言いたいのだ。

③話を難しくしすぎ

 というかそもそも、この原作を真面目ムードで描こうとしたことに無理があったんじゃないかなあ。これだったらコメディ映画として打ち出したほうがよっぽど芯が通ってたんじゃないかと思う。

 例えば日本版のオリジナル要素として、浩介の中に芸術家と犯罪者がいるみたいな下りをずっと引きずるんだけど、考察班を動かしたいという魂胆が見える。この単純かつ完璧なストーリーを無理に難しくして、考察の余地を広げる必要なんてないと思うんだ。

 「You are the apple of my eye」というタイトルも真に受けて、台湾版では作中そこまで大きな意味を持っていなかったこの言葉を、日本版では主人公が何度も口にするし、その伏線として登場させたいのか、林檎そのものの登場回数も多い。

 台湾版に、二人の美しい妄想として、パラレルワールドの話が出てきたのも真に受けて、わざわざナジャグランディーバを起用してまで、パラレルワールドの伏線的なものを張らせた。

 なんかこう、ずっとそうじゃないんだよなあ。

④キャラ設定が甘い

 キャラクターは基本的にそのまま拝借してるんだが、うまく調理できてない。先述の勃○ボーイの話ともリンクしてくる。

 まずヒロインの真愛。口癖は「幼稚」。考え方が成熟しすぎているところが、主人公の真っ直ぐなバカと対比になって面白い。……はずなんだが日本版はここが弱かった気がする。要所要所で二人が言い合いになるシーンがあるんだけど、多くの場合、真愛が浩介にうまく言いくるめられてる印象。役を演じた山田裕貴が齋藤飛鳥より8歳年上というのもあるのかもしれないが、どうも真愛のほうが幼稚に見えてならない(ちなみに台湾版では逆で、ヒロインを演じた女優が主人公を演じた俳優より8歳年上だったりする)。台湾版のヒロインはちゃんと大人で、クールなんだが主人公への思いやりが見える。真愛はクールというよりコミュ障って感じ。常に上からお説教、アリストテレスの言葉引用ウーマン、それで浩介にもっともなことを言われるとそれらしい反論もなく「幼稚」とだけ言い放って立ち去る。真愛を演じた齋藤氏は「監督にあんまり役作りしなくていいと言われた」と話していたが、監督は齋藤氏の素が、この作品のヒロイン像に当てはまると本気で思ったのか?オーディションか何かで彼女の演技を見て、「クールな雰囲気出ててイイね」って思ったんだとしたら、この作品への理解やアプローチが浅い。当然これは演者側の問題ではなく、そのポテンシャルを引き出せなかった演出ミスと言わざるを得ない気がする。

 これの何が良くないって、浩介が真愛を好きになる過程が見えづらくなるんだよね。台湾版では、自転車小屋で言い合いになるシーンで主人公がちゃんと言い負かされて、そこから徐々に改心していくとともに、ヒロインに心惹かれていく様子が丁寧に描かれる。でも日本版では二人が終始噛み合っていないうえに、基本浩介が優位に立っているイメージ。序盤あんなに真愛を毛嫌いしていた浩介が、彼女のどこに惹かれたのかが見えにくい。それなのに中盤で急に「真愛は意外とかわいい」とか言われてもねぇ……

↑自転車小屋口論シーン↑

 あと、ヒロインに関する根本的な話なんだけど、クラスの男子が真愛に夢中である描写が少ないのも気になる。そもそも今作のヒロインは、主人公以外の男全員から好かれているという設定だ。台湾版では序盤に、主人公の友人たちが思い思いの手段でヒロインの気を引こうとする。これが結構コミカルかつ、高校生男子が考えそうなバカ加減で笑える。特に先述の勃○ボーイがヒロインの家の前でリコーダーを吹き続けるシーンなんか最高。ヒロインがやめてと言おうがお構いなしに続く演奏会。青春のイタさが出てていい。だがここでもまた今作は、得意の「設定だけ拝借」を発動してしまう。今作でこのキャラは夜道をリコーダー吹きながら歩いてきて、真愛が住む豪邸の門前で立ち止まって勃○する。で、当然豪邸の中の真愛に、彼のリコーダーの音色が届いている様子もない。

アピールになってないなら、このシーン丸ごと要らなくね?
 
 序盤、例の席替え後の浩介の語りで「気がつくと皆、真愛を見ている」と言うんだよ。そう、今作でもヒロインの真愛ってちゃんとモテ女なんだよね。でもその設定が活きてないよね。大したアプローチもせずに早瀬早瀬言ってる男共の描写は、なよなよした日本人男性への皮肉ですか!?とかいう冗談はさておき、これだけのモテ女が、初めは敬遠していたバカな主人公に徐々に惹かれていくところが尊いところなのに、何してんだ日本版は。

 次に、詩子。この立ち位置、つまり、モテるヒロインの横にいる友達というちょっと可哀想なポジションは、台湾版にも存在する。が、あまり存在感は強くない。だが日本版はここでチャレンジをした。詩子という新キャラを作り出し、序盤から結構前に押し出してる……と思ったが結果的にはこのキャラを殺してしまったと思う。

 詩子が浩介を好きだという設定がある。これは完全に日本版オリジナルの設定。これがまあ不要なんだよな。真愛と浩介の純情ラブストーリーという大筋を、完全に邪魔している。個人的な見解だけど、台湾版を見た制作陣が「このままじゃ松本穂果がモブになっちまう」と思い、松本氏を立たせるために、この二人を片思いという関係で繋げたんじゃないかと考える。だったら浩介に妹みたいに思われてる切なさ、真愛に対する嫉妬の描写、作中にないことはないんだが、もう少し丁寧にやれたんじゃない?

 あと猫が好きっていう設定も序盤から強調されていたんだけど、その伏線回収のつもりなのか中盤に2回、猫耳が登場する。一回は学校で、もう一回は海で。これがあまりに不要。何でもないときに学校に猫耳持ってくるっていうのがまず飲み込めないし、海のシーンに至ってはどういうことよ。

猫耳つけたまま海水浴した最初の人類ですよ

 設定自体は悪くないのに、視聴者にそれを不要と思わせている点から、結局、詩子をモブ止まりにするような甘いキャラ設定が指摘できる。

 その他大勢クラスメートがいるんだが……ぶっちゃけ覚えてなくね?いや向乃は日本版だけでも15回は見ているから覚えてるんだけど。向乃が言いたいのは、「ホテル経営者の御曹司」「主人公が一年間練習してきたテコンドーを数日で超える」「嘘をついたら鼻血が出る」みたいな面白そうな設定を散りばめたくせに、ろくに掘り下げずに終わったせいでキャラクターが印象に残らないよなってこと。

 台湾版では残念なイケメン的なポジションのやつが主人公に、ヒロインへのラブレターを代筆させるシーンがあったり、女の子大好きで、冴えないが明るい男が、終始ヒロイン脇の友達にちょっかいかけていたり、勉強できるやつが、他の輩とは違うクレバーなムーブでヒロインに近づき、主人公のライバル的な役目を見事果たしたりと、どのキャラクターも印象深い。先述の要らないシーンを削ってキャラを掘り下げれば、作品に厚みが出たと思う。

⑤良シーンの改悪

 日本版はとにかく重要なシーンを外しまくっていた印象だ。例えば、終盤の印象的なシーン。

 それは、高校時代の同級生が、大人になって何の仕事についているかを列挙するシーンだ。ここはすごく重要。なぜかって、中盤に出てくる、海辺で主人公たちが夢を語るシーンとの対比になるから。まず、原作版。海辺で少年少女が次々夢を語る。大金持ちになること、MBAをとること、バスケの世界的プレイヤーになること、彼らの夢はとにかくビッグで、青春特有の妄想って感じがする。そして、彼らは大人になる。大金持ちを夢見ていた男は、堅実な図書館職員になる。MBA取得を目指していた男は、しがない保険会社勤務に落ち着く。バスケで世界に名を轟かそうと目論んでいた男は、中古車販売員としての人生を送る。そう、今作に出てくるほとんどの人物が、大それた夢を叶えられずに終わる。個人的にはここに現実味が詰まっていてすごくいい。

 では、日本版はどうか。海辺のシーンはだいたい同じなので割愛。大人になって、彼らはどうなったのか。MBA取得を掲げた男は、東大卒業後、総務省に入省し、念願の海外留学も果たした。バスケが大好きでアメリカでプレーしたいと考えていた男は、日本で注目されるプロ選手として活躍。ゲーム開発に興味を示していた男は、立ち上げたIT企業で大儲け。

……え、出世しすぎじゃね?

 ここが何ていうか、日本のハッピーエンド主義的な何かを感じて、向乃はいけ好かない。主人公の恋愛が成就しないところも含め、リアルなのが良いんだろ、この作品は。主演の山田氏は後のShowroom配信で「ちゃんと現実を見てるっていうか、綺麗事がないと思います」って言っていたけれど、その原作の良さは、本当に日本版にも反映されていただろうか。

↑海のシーン↑

 気に入らないシーンはまだあって、それは主人公と友人たち、さらに優等生ヒロインまでもが、大人に反発するシーン。ここは、幼稚な悪ガキどもと連中を避けていたヒロインが、初めて彼らに同調し、理不尽な大人たちに立ち向かう、重要なシーンだ。2作において、このシーンの導入は大体一緒で、主人公やヒロインの属するクラス内に、泥棒がいる可能性があるというところから始まる。台湾版では、警備員に「クラス全員、紙に怪しいと思う奴の名前を書け」と理不尽な命令をされ、「クラスメートを疑い、さらに告発するような真似はできない」と主人公たちが抵抗する姿を見せる。これは実に理にかなっているといえる。

 だが、日本版はどうだろう。こちらでは学校の金庫が破られたことがクラス全員に告げられ、その時間、校内にいたことが確認できた生徒に話を聞くと担任の先生から伝えられた。これに対する主人公及び友人たちの反応はこちら↓↓↓

「俺たちのことを犯罪者だと思ってるんですか!?」
「なんちゃら警備でなく、警察につきだせよ!」
「(同じ時間に校内にいた)○○先生はいいのかよ!」
「証拠品を預ける!(カバンを警備員にぶん投げる)」

 ん?何でそんなキレてんの?って向乃は思った。台湾版は行き過ぎた大人の圧力的なものが感じられ、視聴者は自然と主人公たちに感情移入できた。だが日本版の警備員及び教師が言ったことは、事件の対応としては真っ当なものだと向乃は思ってしまった。先にも述べたように、このシーンは第三者からの不当な圧力によって、初めて主人公一味とヒロインが結託する場面で、その後このグループが仲良くやっていくきっかけとなるようなシーンなのだ。だから残念だ。

⑥実話である良さを消した

 台湾版の良さの一つは、前情報を入れていない人でも、これが本当にあった話だと最後に気づける作りになっていることだ。エンドロールには、三十代の原作者コー氏から、十代の自分に向けた一言が書かれていて、アツい。だからこそ、ラストシーンで、自分の人生をエンタメに昇華し、人々を感動させられる力を持つ主人公もとい原作者の姿に感動し、小説家を志す少年が誕生したわけだ。

 しかし、日本版だけを観ると、ここが伝わらない。せめて「グリーンブック」とか「最強のふたり」みたいに、エンドロール前に「これは、台湾の作家ギデンズ・コー氏にまつわる実話をもとにしたストーリー」という説明を入れれば、感動が全く違うのになと思った。フィクションの恋愛物語をフィクションの浩介がパソコンに打ち込む。そこに書かれた「あの頃、君を追いかけた」という言葉は本来、実在した十年の片思いを表すとても重たいものであるはずなのに、台湾版を知らない視聴者にはきっと「へー」と流されただろう。ラストシーンが活きない映画なんて致命的と言う他ない。

最後に

 こんな長文を最後まで読んでくれてありがとう。多分ここまで熱くなれる話題はそう多くないと思う。

 挙げた良いところに対して、良くないところの文量が多すぎて、アンチだと思われたかもしれない。しかしもう一度言うが、向乃は原作とリメイク版を合わせて35回見るほどの大ファンだ。星も8つつけてるし。メイキング映像まで網羅していて、現場の暖かさも含めてこの映画は大好きなんだよ。

 つまり何が言いたいかっていうと、向乃に作らせてほしいってことだ。今作は原作の完成度に対して、日本での知名度があまりに低すぎる。今作はこんなところで終わるようなポテンシャルじゃない。だから、いずれ小説家として向乃杳が大成した暁には、再リメイク版を撮らせてほしい。関係者に届け、この熱意。

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