(ある時代の、ある身分の)女性の名前のこと

初対面の人とあえば、○○ですと互いに自分の名前から自己紹介をはじめる。そんなとき、僕は頭の中で、この人の名前をどう書くんだろうと自分のなかの音訓の知識を駆使してあてようと試みるが、これがなかなか難しい。
それは現代の人々の名前で用いられる漢字と、常用の漢字とでは訓が(ときには音も)かけ離れていることが往々にしてあるためである。
しかし、それはなにも今にはじまったことではなく、古来、日本において名前に用いられる漢字の読み方は尋常の読みとは異なっていたらしい。近世の考証随筆を見てみれば、名乗りの漢字に用いられる読み方に、これはかかる事情があって…と漢籍を引いて説明しているし、中世の百科事典の類でも、「シゲ」と読む漢字にはこんなのが、「ノブ」と読む漢字にはこんなのが、と漢字を列挙する記述を見出せる。歴史を研究する中で、人名の読み方は、あるいは慣習にしたがって、あるいは上記の史料を用いることで、はたまた平仮名で記した例から、ある程度推定することができる。

そんな中で一際、推定が難しいのが貴族や公家、天皇の女子の名前だろう。次にあげるのは『文化八年正月女房次第』(下橋敬長、羽倉敬尚注『幕末の宮廷』(平凡社 1979年)所引)に見える内の女房(典侍・掌侍・命婦・女蔵人・御差)の名前とその読み仮名である。
季子(すゑこ)
頼子(よりこ)
正子(をさこ)
根子(もとこ)
昵子(ちかこ)
庸子(つねこ)
確かにそのように読むと言われれば、そうだが、「正子」「根子」あたりはなかなか読みにくい。しかし宮中において、皇后以下の女性の多くはこのような名前を有していた。
(近世のなまえをあげるのは斎宮博物館の「第48話 斎宮百話 女性に名前をたずねるなんて…」(https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/hyakuwa/journal.asp?record=48 )(最終閲覧日2023年11月29日)を参考にさせていただきました。同博物館の榎村寛之さんの『斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書 2017年)
も斎宮を知る入門書として大いに参考になるからオススメだよ)

時は遡り平安時代中期を代表する中宮の藤原定子と藤原彰子。江戸時代の例から、この二人も恐らく「〜こ」と読んだことは推測できるが、「さだこ」「あきこ」だろうか?あるいはまた別の読み方があるだろうか?学校では「テイシ」「ショウシ」と習った方もいらっしゃるはずだ。
一旦、この2人はさしおいて文徳天皇の女御藤原明子はどうだろうか。この人の読み方をご存知の方は多いかもしれない。驚く人もいるだろう、なんと「あきらけいこ」と読むとされている。

「定子」「彰子」を「テイシ」「ショウシ」と習った一方で、「明子」を「あきらけいこ」と読むことは、音読み訓読みが統一されておらず、奇異にみえる。
漢字の読み方には大きく、古い中国の漢字音に由来する「音読み」と、漢字の意味に和語で読みをあてた「訓読み」とがあり、「テイシ」「ショウシ」は音読み、「あきらけいこ」は訓読みに分けられる。定子や彰子は名前の「正確な」読み方が判然としないから、歴史学ではふつう音読みに、ただし明子は「あきらけいこ」と伝えられているから訓読みで読んでいるといわれる。
果たして本当に定子や彰子の読み方は判然としないのか、明子は本当に「あきらけいこ」だったのか、「テイシ」「ショウシ」は誤りなのか、ここでは、それらをちょっと考えつつ、僕が今知っていることを話してみたい。

「定子」や「彰子」、「明子」という名前は史料上では諱(いみな)や名字と呼ばれる。藤原道長の「道長」や豊臣秀吉の「秀吉」もこれである。今回、考察の対象とするのは諱・名字である。(以下では諱、名字を「名前」とも書くが、わかりやすさのためであり他意はない。)

貴族の女子や内親王といえば「〜子」型の名前がまず浮かぶが、これが多く現れ始めるのは奈良時代後期であるという。奈良時代では中臣東子のように「〜子」の名前が見られるが、「〜娘(いらつめ)」(例えば藤原五百重娘)や「〜姫(媛)」(例えば紀朝臣橡姫)なども多く見いだせる。(1)
角田文衞氏の分析によれば、奈良時代を通してみたとき、その後期にいたって「〜子」型(「〜古」とすることもあった。「〜子」の「子」が訓で「こ」と読まれたことの証左になろう)が増えてくるという。嵯峨天皇のころに及んで、内親王の名前に「好字一字+子」つけることが慣例となった。これを皮切りに貴族社会においてこのような名前の構成が増加していったそうである。(2)

では「明子」を「あきらけいこ」と読むのは、そもそもどこに書かれているのだろうか。実は明子の生きていた時代の史料には彼女を指して「あきらけいこ」と書いたものはなく、ただ「明子」とあるのみである。それでは「メイシ」だった可能性も排することはできない。実際、千葉本『大鏡』では「明子」の「明」の横に「メイ」と振られており、「メイシ」と読まれたと思われる。
「明子」が「あきらけいこ」として登場する史料には『伊勢物語』の注釈書が古いものだろう。『伊勢物語愚見抄』(一条兼良による注釈)には「染殿の后藤原明子」の「明子」の傍訓に「アキラケイコ」とあるのをはじめ、注釈書には多く見いだせる。
では「あきらけいこ」は明子の生きていた時代で違和感はなかったのか?このような注釈書では漢籍や日本の古典、密教と絡めて、古典を解釈しており、現代の解釈から見ると、違和感を拭えない記述もままあり、これだけでは確定するのに勇気がいる。
実は平安時代、女御藤原明子以外にも「あきらけいこ」という人が生きていたのが『古今和歌集』の詞書に見出すことができる。

 『古今和歌集』巻17 雑上
  田むらのみかとの御時に、斎院に侍りけるあき
  らけいこのみこを、ははあやまちありといひて
  斎院をかへられむとしけるを、そのことやみに
  けれはよめる、 あま敬信、
  おほそらを てりゆく月し きよけれは 雲かくせ
  とも ひかりけなくに

ここでの「あきらけいこのみこ」とは文徳天皇の女で、賀茂斎院であった慧子内親王を指す。
また『後撰和歌集』の詞書にも次のような例がある。
  『後撰和歌集』
  典侍あきらけいこ、ちちの宰相のために賀し侍
  りけるに、玄朝法師のもからきぬぬひてつかは
  したりければ、典侍あきらけい子、
  雲わくる あまの羽衣 うちきては 君がちとせに
  あはざらめやは

こちらの「典侍あきらけい子」は藤原仲平の女である。
慧子内親王や典侍藤原明子の例、また後の時代の「あきらけいこ」という記述から恐らく文徳天皇の女御「明子」も「あきらけいこ」と読んだのだろうと判断できるのである。

このように女性名の訓読みを推定するのは一筋縄にはいかないものの、わずかな史料から推測することは可能である。

女性名の訓読みを記した史料は、僕が今まで見てきた限りだと次のように分類できるだろう。
①注釈書
②和歌集の詞書
③貴族・公家の古記録
④その他

ひとつは今までに見てきた『伊勢物語』や『百人一首』などの注釈書である。『伊勢物語』は在原業平の一代記とされ、各話に登場する人物のうち何人かを(あるいは全員を)実在の人物にあてて解釈しようとする方法が中世以来多くみられる。『伊勢物語』の中世の注釈をひらいてみると、「あきらけいこ」の他にも紀静子や藤原高子、崇子内親王、藤原直子はそれぞれ「しづけいこ」(十巻本『伊勢物語注』)「たかいこ」(『伊勢物語愚見抄』など)「たかいこ(『伊勢物語奥秘書』など)/たかきこ(『増纂伊勢物語抄』など)」「なをいこ」(『伊勢物語愚見抄』など)とする例がある。(以上、『伊勢物語』の古注釈は片桐洋一ら編『伊勢物語古注釈大成』(1)〜(7)笠間書院(2005〜2022年)を参考。)
また『百人一首』の読み方の説を伝えるものには「式子内親王」に対して「のりこ」と振る例がある。
ただ、これらの注釈書の訓がどういったルートで生まれたかなどの問題もある。

また見てきたように和歌集の詞書に残るかな書きは注釈書よりも有用だろう。『古今和歌集』には慧子内親王の他にも「あまねいこ」(春澄洽子)や「なほいこ」(藤原直子)、『九条右大臣集』には「たひらけいこ」(橘平子)、『後撰和歌集』には「いさぎよいこの命婦」(きよいこの命婦とも)や「ひとしきこのみこ」(均子内親王)、『拾遺和歌集』には「承香殿のとし子」(俊子)を見出すことができる。(時折、読み方が確定しているのは「明子」と「高子」だけという説も見かけるが、以上からそれは誤りであると断定できる。)
これらが女性名の訓読みを推定できるおおよそであろう。また貴族・公家の古記録も手がかりとなることがある。例えば藤原多子の入内について藤原頼長がまとめた『婚記』には藤原成佐の名字勘文(入内の際の名付けのため、好字を選ぶときに書かれた上申文書)に対して中原師安が次のように述べている。
  『婚記』
  親王并びに婦人の名、訓の慥かならざる字、用
  ゐずと云々。是れ公御前に於いて声に読むべか
  らず、訓に読むべき故と云々。而るを近代の
  間、訓の慥かならざる字等見え候ふ、如何。就
  中、多字、まさると云ふ訓に候ふか。彌いよ神
  妙に覚え候ふ。

親王や女性の名前は公御前(宮川葉子氏は「公御前」の意味を天皇の前かとしている(3))では声(音読み)ではなく、訓で読むのがよいというが、最近では訓がハッキリとしない字も多く用いられているという話の流れで、「多」の訓を「まさる」という訓だろうと言っており、「多子」に想定された訓は「まさるこ」だと考えられる。
他にも平範国の日記には「一宮御名良子、良字、長と読む。二宮御名娟子、麗と読む」とあり(長元九年十一月二十八日条)、それぞれ「ながきこ(ながいこ)」、「うるはしきこ(うるはしいこ)」あたりの読みが想定できよう。
だいぶ時代が下ってしまうが中世の公家中山定親の日記『薩戒記』には足利義満と懇意であった藤原誠子の名前に「ともこ」と傍訓があることもある。
その他には少数ながら、例えば梅沢本『栄花物語』には村上天皇の中宮藤原安子に「やすいこ」とふった例があるのが挙げられる。

「あきらけいこ」や「やすいこ」のような(現代人から見ると)不思議な名前の構成は「あきらけい」「やすい」と「こ」とで分けられる。形容詞「あきらけし」「やすし」の連体形のイ音便に「こ」がついた形で、このような名前は現在に判明する例から少なくなかっただろうと推測できる。冒頭に例を出した「定子」や「彰子」もこのような例にのっとれば「さだけいこ」(形容詞「さだけし」の連体形+「こ」)「あきらけいこ」(形容詞「あきらけし」の連体形+「こ」)あたりが妥当だろうか。(「形容詞の連体形+「こ」」の形がどのあたりまで存在していたかも考慮する必要があるが…)
また「ひとしきこ」のように、常にイ音便形ではなかったようである。文徳天皇の女御藤原多可幾子も「たかきこ」であり、「高子」あたりを万葉仮名的にあてたものと思われる。

一般的に、名前の読み方が分からないとされる彰子について、なんと「あきらけいこ」と読ませる史料がある。『皇統尊諱讀曲清濁』(近世の成立。中世以来の古今伝授の説を記している。)には「中宮彰子」の左右の傍訓に「アキラケヒコ」「シャウシ」とあり、彰子の読み方に「あきらけいこ」が(他には源麗子に「ウルハシイコ」、藤原芳子に「ハウシ/カウハシイコ」もみえる)なんらかの形で伝えられていたことが伺える。時折「彰子の読み方を記したものはない」と言われることがあるが、それは以上から誤りである。(「彰子の読み方を記した、平安時代中期の史料がない」となればまた別であるが。)

ここまで女性名の訓を見てきたが、違和感を覚えた方もいるかもしれない。『皇統尊諱讀曲清濁』の中の「彰子」には「あきらけいこ」だけではなく音読みで「シャウシ」とも記されているのである。
歴史が好きな人の中には、このような名前の音読みは当代的ではなく、訓読みが正しい、あるいは音読みは近代以降に始まった慣習であると知っている人もいるかもしれないが、女性名の音読みは少なくとも近代以降のものではない。先程あげた中ではあえて外したが、『伊勢物語』の注釈書において、「順子」や「恬子内親王」はわりと音読みが多く、「ジュンシ」(『伊勢物語知顕集』島原松平文庫本系統など。ただし「したがふこ」とされることもある。)「テンシ」(『伊勢物語奥秘書』など)としている。また千葉本『大鏡』(比較的古い写本)では「安子」に「アンシ」、「当子」に「タウシ」、「禔子」の「禔」に「シ」とふっていたりする。(また千葉本『大鏡』では懐平に「ヤスヒラ」「クワイヘイ」、道雅に「ミチマサ」「タウカ」、時平に「トキヒラ」「シヘイ」など音訓いずれもの傍訓を有している。藤原時平の音読みに関しては三浦直人氏が「藤原定家をテイカと呼ぶは「実名敬避俗」にあらず」で検討されており、三浦氏はこのような文学作品で音読みすることで、音訓を交替することで物語世界と現実世界を隔てる装置となっていた可能性を指摘している。)
ちなみに先述の『百人一首』の読癖では式子内親王を「のりこ」とする一方で、祐子内親王家紀伊の「祐子内親王」は「ユウシ」とすることが多い。
平安時代後期の成立とされる百科事典『簾中抄』にはたくさんの女性名が収められているがそこでも「識子内親王」の「職」に「ショク」
「徽子内親王」の「徽」に「クヰ」、「藤原温子」の「温」に「ヲン」といった、具合に音読みで振られている。(確認した『簾中抄』の写本は近世のものなので当然、注意しないといけないが、少なくとも「音読みは近代以降おこなわれた」は誤りとみなせる。)
橋本義彦氏の「鳥羽天皇の生母の名 茨子か苡子か」では、茨子とも苡子とも書かれるその名前を、調査を踏まえ、正しくは苡子であったと推定している。そこで引かれる事例によると、鎌倉時代中期の書写とされる『今鏡』の一本で苡子の名前が「い子」と記されているそうである。茨の音読みは「シ」「ジ」であり、訓の「いばら(うばら)」も当てはまらない一方、苡は音読みで「イ」であり、「い子」は苡子を音読みで記したものだろうという。

先にあげた藤原頼長の『婚記』に「公御前に於いて声に読むべからず」「近代の間、訓の慥かならざる字等見え候ふ」とあるのは、逆に「公御前」ではない場では「親王并びに婦人」の名前が音読みで読まれた可能性もあろう。実際、多子に女御の宣旨が下された際の『婚記』の記事に「公通朝臣来り仰せて曰はく『従三位藤原朝臣多子、女御と為す』てへり。余(頼長を指す)、右少弁範家を召して之に仰す。〈其の詞、次(欠字)但し次いで多子二字、音に之を仰す。余、訓に之を仰す。」とあり、平範家は音読みで、頼長は訓読みで「多子」の名前を読み上げた事例を宮川葉子氏は「平安期における女性の「名前」考」のなかで指摘している。これについて、宮川氏は「同音異字からおこる間違いを防ぐための手段」とみなしており、この時期では場合によって音訓を選択していたことも考えられる。

一般的にいうように名前の読み方が分からないから、音読みを選択することもあったかもしれない。しかしこのようにいくつもの音読みが伝えられている以上、そもそも、男女の名前を「音読み」することに対しての意識なども考察した上で考えていかなければならないだろう。角田氏は『日本の女性名』のなかで偏諱+子(父の一字+子)の例が平安時代後期に増加し、これらの訓は推して知ることができることから、「女性名の音読がいかに愚劣であるかが判明するであろう」とされている。たしかに偏諱をうけている名前に関しては訓がわかる限り、訓を選択することも良いだろう。

時折、「女性名の音読みは明治時代の国文学研究の中で行われ始めた」という話を聞くが、これは一概には誤りとは言えないと思う。(明治時代というのは誤りだが…。)
中世来の古典籍の注釈書のなかで実際、音読みしている例は確認してきた通りである。しかし一方、同じところで訓読みも伝えられており、音訓まじえて読みを伝えてきた。

音訓どちらも許容されてきた歴史を踏まえると、訓か音かいずれか正しきではなく両者を受け入れ混用、または併用する余地を残すこともひとつの手ではないだろうか。

また、ここで見てきた名前の多くが、平安時代の、貴族や天皇の女子の名前であるが、こういった名前の、社会における役割はどのようなものだったのか。形容詞連体形を含む名前が現れる前段階の下地や、それ以降の名付け方・名前の読み方、また現在まで伝わる(男女問わず)名前の音読みはそもそも「読み方がわからないから」という理由なのか(音読みで読むことへの意識は、「読みが分からないから」に限られるのか)、
まだまだ検討すべきことは多いように思われる。
結局、疑問ばっかりで終わっちゃったから、いずれ考えていきたいな。

さいごに調べているとき、インターネット上で見かけた女性名に関する言説を確認していく。
①音読みは読み方が分からないから行われた←それもあったかもしれないが、漢字音を用いることによる増価効果などがあった可能性も考慮しなければならない。検討を要する。
②音読みは近代、国文学界(歴史学界)で行われるようになった←誤りであるのはすでに確認してきた通りである。もしかしたら、この件を記した史料があるかもしれないが、未見。
③読み方が分かるのは明子と高子だけである←誤り。
④平安時代中期、女性名の読みは訓読みのみが正しかった←検討を要すると思う。現代では、人名の正しい読みは一つとなっているが、藤宇宇合が「のきあひ」「うがふ」、舎人親王が「いへひと」「とねり」、織田信雄が「のぶを」「のぶかつ」、藤原愛発に至っては「よしちか」「ちかのり」「あらち」と、名前の読みに幅を持たせ、家の説、個人の説によって人名を読んできた。ただし、当然、当代に想定された読み(音か訓かは別にして)はあったはずであり、どのようであったか、ミクロ的な研究とマクロ的な概観は必要である。日本史上における名前の読み方の複雑さは指摘されており、考えるべきところは多いだろう。

【注】
(1)角田『日本の女性名』pp.59-61
(2)角田『日本の女性名』pp.80-81及びpp.92-93
(3)宮川葉子「平安期における女性の「名前」考」p20。「公(おほやけ)の御前」か。また『江談抄』には、村上天皇が小野道風に「我が朝の能筆は誰だ」と尋ねた際、道風は「空海・敏行(びんこう)」と答えたそうだが、これに対して「敏行」は「としゆき」と奏上しなければいけないと非難した話が見える。三浦氏は「藤原定家をテイカと呼ぶは「実名敬避俗」にあらず」で、この話は「公御前」で女性名を音読みしてはいけないことと関連して見る必要を指摘している。

【参考文献】(刊行年がいくつかあるものは新しいもののみを載せた)
角田文衞『日本の女性名 歴史的展望』(国書刊行会 2006年)
橋本義彦「鳥羽天皇の生母の名 茨子か苡子か」(『平安貴族社会の研究』吉川弘文館1976年)
宮川葉子「平安期における女性の「名前」考」(『ぐんしょ』14 続群書類従完成会 1991年)
三浦直人「藤原定家をテイカと呼ぶは「実名敬避俗」にあらず」(『風俗史学』日本風俗史学会 2019年)


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