元暦二年のオーロラ事件

元暦二年正月一日の空模様

元暦二年正月一日、晴れ晴れしい空の下、鏡を見る例のごとく、元日節会、小朝拝が行われていた。右大臣九条兼実はそのときの様子をつまびらかに『玉葉』に書き留めている。尤も、兼実にとって、その時の儀式は不満があったようで、小朝拝のときに、大将九条良通はなんでか着座しないし、舎人以下の声は見苦しいしで、散々な思いを抱いている。しかしそんなことは些事にしか思えないような大事件が、この日に起きていた。

『吉記』正月一日乙酉
後に聞く。戌の時、蚩尤旗、東方に見はる。子の時に至りて消ゆ。〈張宿に在り。長さ、一丈引。末、彗に似たり。〉王者、四方を征伐す。其の後、兵、四夷を誅す。数十年を連ね、然らずんば国に大喪有り。

『玉葉』の正月一日条にはこの事件について記されていない。その四日後の正月五日条に天文博士安倍広基の報告を受けて詳細を書き記している。広基の言葉によると、「巽の方、赤気、その体、彗に類す。所謂蚩尤気なり(巽の方の赤気(オーロラのこと)について、その見た目は彗星のようであった。いわゆる蚩尤旗のことを指す。)」「その占、尤も重し。旧きを除き新たを布く象なり」(その占いは大層重大なことである。古い体制から新しい体制に代わる予兆である)という。この日は、博士からの報告を書き残すのみで終わっているが、十二日になると議論にまで発展している。なお蚩尤旗とは彗星に似ているものの、尾っぽが曲がって見えるものを指し、本来、蚩尤旗と赤気は別物である。広基の勘違いだろうか。

日本で見られるオーロラ現象

かつての日本においてオーロラが見えていたことは、意外にも広くは知られていな「かった」。「かった」というのは最近、度々、ニュースに取り上げられる中で、藤原定家の『明月記』にみられる、「元久元年正月十九日」以降何日かに亘って発生したオーロラ記事が注目されたためである。もともと、この記事自体は知られていたものの、理系の分野から太陽の活動が当時激しかったことが確認され、実際に起きたことを書き留めたのだろうと結論付けられた。当時の太陽活動が活発であったことを示唆する史料には『宋史』「天文志」が挙げられる。「天文志」のうち、「日変」にみられる「黒子」は太陽の「黒点(sunspot)」を指す。日本の元暦元年正月にあたる時期には黒点がたくさん観測されたことが記録されており、日中の史料を照らし合わせることで、史料の観点からもオーロラがあっただろうことが伺える。

『玉葉』に話を戻すと、正月十二日には清原頼業は「去る正朔(正月一日)、東方赤気あり。而して司天の輩各おの執論あり。」と兼実に報告しており、また兼実の元にやってきた大蔵大輔(安部)泰茂と兼実との議論を書き記している。

『玉葉』元暦二年正月十二日
(中略)(安倍)泰親の子息等(業俊・泰茂)、彗星の由を申す。(安倍)広基・資元等、蚩尤旗の由を申す。時晴・晴光等、客気の由を申すと云々。この間、大蔵大輔泰茂来る。前に召し天変の事を問ふ。彗星の条、異議無き由を申す。余問ひて云はく本星無しと云々。然らば彗の条、如何。申して云はく去る治承元・二年、現はるる所の彗又た以て本星無し。然れども泰親は彗の由を申す。季弘は蚩尤旗と称す。相論の間、泰親朝臣、天を仰ぎて天判を請ふ。若し泰親、彗に非ずと申し、彗と申さば天罰を蒙るべし。季弘、父に乖き彗にあらずと申す。而るに幾程を経ず、重病を受け危命に及ぶ。時に泰親自ら祭文を書き、祭祀を修し、天に申し請ひ、即ち病癒ゆ。然れば則ちかの時の事切り了んぬ。全く星の有無に依るべからず。しかのみならず、宋書天文志、雲気を以て力星と称し、気を以て星と称する証、これを以て指南と為す。何ぞ況んや彗の体、客気異雲に似ず。更に見誤るべからざる事なりと云々。余問ひて曰はく「会釈然るべし。但し有星を以て彗と為し、無星を以て蚩尤旗と為す。而るに彗、無星と謂ふは、何を以て彗と蚩尤旗とを分別すべしや」と云々。申して云はく「只だ、同体異名なり」と云々。この条、頗る分明ならざるか。然れども執論に及ばず。余、之を案ずるに「当時、天下の為体、彗勃の災猶ほ以て軽しと為すべし。而るに今、妖星を見ず。奇と為す処、忽ちに出現す。誠に彗と謂ふべしや。但し、無星に於いては猶ほ一定し難しや。」と。(中略)凡そ司天の事、其の道の輩猶ほ窮知し難し。況や習学せざる人に於いてをや。

現代語訳
(中略)安倍泰親の子の業俊と泰茂は彗星であると主張をした。安倍広基・資基は蚩尤旗であると主張をした。安倍時晴と晴光は客気であると主張をした。この間に安倍泰茂が来たので、前に召して天変のことを尋ねた。泰茂は彗星で異議がないことを申したので、私(兼実)は「本星はなかったとのことである。それなら彗星といえるのだろうか。」と尋ねると、泰茂は「去る治承元年・二年に現れた彗星には本星が無かった。しかし泰親は彗星であると主張し、季弘は蚩尤旗であると言っている。相論の間、泰親朝臣は天を仰いで天判を請うた。もし泰親が彗でないのに、彗であると主張していたら天罰を蒙るに違いない(と泰親は誓った)。季弘は父と反対に彗でないと申していたが、いくばくもなく、重病を受け命の危機に及んだ。そこで泰親は自ら祭文を書き、祭祀を修し、天に許しを請うたところ、たちまち季弘の病は癒えた。それをもって、このときの決着はついた。彗星かどうかは全く星の有無に依るものではないのだろう。またこれだけではなく、宋書の天文志にも『雲気を以て力星と称し、気を以て星と称する証、これを以て指南と為す。』(と見えている。)どうして彗星の様子が客気異雲に似ていないだろうか(いやむしろ似ているだろう)。決して見誤ることはないものだろう」ということである。私は「解釈はその通りだろう。しかし有星を以て彗といい、無星を以て蚩尤旗ということがある。しかし彗が無星であると謂うならば、何を以て彗と蚩尤旗とを見分けるのだろうか」と泰茂に質問した。泰茂は「ただ同じもので名称が異なるに過ぎない」と答えた。このことは、すこぶるはっきりとしていない。しかし論争には及ばない。私がこれを考えるに「当時の天下の様子は、まだ彗星が出現する災異を軽事であるとしていた。しかし今、妖星は現れず、不思議と思っていたところ、突如として出現した。本当に彗星と謂うのがよいだろうか。しかし無星に於いてはやはりはっきりとするのは難しい」と思われる。(中略)そもそも天文学は、その道の人々でも知を極めることは難しい。まして学習していない人においては分かることはなかろう。

安倍氏の陰陽師らが元日のときの現象が何であったか論争していたらしい。なぜ同じ安倍氏の中で意見の対立が見られたのかといえば、確かに学術的な対立も考えられるが(例えば、泰親とその子季弘との対立はまさにそうだろう)、他方で安倍氏の中で家が分かれ始め、他の流れよりも優位に立とうと争いが起きていたことも関係していたのではないかということが指摘されている(1)。

陰陽師らはもっぱら赤気ではなく、彗星か、蚩尤旗、あるいは客気(外からくる一時的な運気)かで論争していたようである。最終的には「指すの神子」と称された泰親の「彗星である」という意見が通ったようである。当時の正月元日には彗星が流れていったのだろうか。
実際にこのとき、元日の空を覆ったのは「オーロラ」、もっといえば、低緯度地域に現れるオーロラ、つまり始めに兼実報告された通りではないかと考える。

天皇の御代ごとに太政官の構成やそのときの出来事を簡単にまとめた『一代要記』という史料では元暦二年正月元日の現象について、次のように記している。

『一代要記』
正月一日、戌の時、彗星、東方に見はる。長さ、一丈余り。色、赤白。

簡単に当時の「彗星」の様子をスケッチしただけだが、その色が「赤白」であったと記されているのは注目したい。

太陽から放出される、荷電粒子が、地球を囲む磁気圏に侵入することで、そこで大気圏のイオンと衝突し、発光する現象がオーロラである。日本のような低緯度地域で見られるものは、私たちが想像するオーロラと異なり、赤色に発光する。色を決定づけるものは電子の加速によるといい、あまり加速されないときには赤くなるそうだ。記録上、単に「白気」「赤気」というときには彗星を指すこともあるそうだが、このときのように「赤白」と記されたときにはオーロラを指し示す可能性がぐんと上がるそうである(2)。

低緯度オーロラが発生するには、太陽において大規模な太陽フレアが発生することが条件である。太陽フレアが生じるときにはいわゆる黒点の発生が見られるため、当時の史料から黒点を見つけることができれば、オーロラであった可能性はより一層上がるだろう。日本ではなかなか太陽の黒点は記録されていない。六国史には本当にごくまれに黒点をしるした記事が見受けられるが、その他には見られることはほぼないだろう。そこで、登場していただくのが外国史料である。中国では古来、国史が編纂されてきているが、その中で、「天文志」と呼ばれる巻には天の変化を細かに記している。
残念ながら、『明月記』と『宋史』のように全く同じ日に、というわけではなかったが、『宋史』「天文志」を見てみると、「淳煕十二年正月癸巳(1185年2月10日。なお元暦二年正月一日は同年2月2日)、日中に黒子生ず。大きさ、棗のごとし。」とある。また朝鮮まで視野を広げて『高麗史』「天文志」を見てみると、「明宗十五年正月甲午(同年2月11日)、日に黒子有り。大きさ、梨のごとし」と見られる。「黒子」は先述の通り、太陽の黒点を指すが、朝中において、太陽の黒点の増加が観測されていることは興味が惹かれる。2つの外国史料から当時の太陽活動はある程度活発だったと考えられ、日本においても低緯度オーロラが観測されたことは十分妥当と考えられるだろう。『明月記』元久元年のときのものよりも古く、古記録に記されたオーロラ現象かもしれない。

さいごに

正月一日というめでたい日に、人々に恐怖を抱かせた現象は、果たしてオーロラか、彗星か、蚩尤旗か。道の棟梁ともいうべき安倍泰親に反論を提出する形となってしまった。しかし今回調べた際には、この現象が彗星であることを前提に、述べられていることが多かったので、可能性として示唆してみた。オーロラであった可能性も視野に入れ、この現象を考えていく必要性がある。しかし今回においては単に史料からアプローチしたのみである。『明月記』のいうところの「赤気」がオーロラと判明したときのように、この現象も理系の分野から攻めていく必要がある。またこの時期には天変が多かったのか治承元年十二月、治承二年一月にも「彗星」が現れており、こちらは『平家物語』にも見られ、こちらは今後検討していきたいと思う。

『玉葉』元暦二年正月十二日条のこの話題の中で、兼実は次のようにも述べている。「此の後の禍乱に随ひ、是非を定むべきか」、つまり「この後起きる災いにしたがって、彗星であったかどうか定めなければならない」と。しかし、来たる二月、三種の神器が幼い天皇もろともに沈んでいくとは、兼実自身も思っていなかったことだろう。

参考文献

(1)村山修一「院政期の陰陽道」 『史林』52(3)史学研究会 1970年
(2)岩橋清美・片岡龍峰『オーロラの日本史 古典籍・古文書にみる記録』平凡社 2019年

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