遠い夏

「あ……」
 とつぶやいたら、そのあと、何も言えなくなった。
 日曜の午後、改札を出たところ。天気は晴れ。のはずだが、今日はやけに湿度が高く、日の光もどこかぼんやりとしている。見上げれば太陽もやはり頼りなげな輪郭を衆目に晒しており、なのにじりじりと暑さだけは伝えてくるのが、なんだかとても詐欺めいている。
 後ろから小さな舌打ちが聞こえ、私は我に返る。邪魔だよこの馬鹿女、そう言いたげな視線を一瞬だけむけて、サラリーマン風の年配の男が私を追い抜いていく。
 私は歩き出す。駅を出た一瞬、視覚を通して脳の奥底まで突き刺さり心を揺さぶり、私の足を止めた、見知らぬ人の姿、その人の身に纏ったTシャツの色を、忘却の淵に沈めようと、虚しい努力を際限なく繰り返しながら。
「カナリーイエロー、っていうんだよ」
 耳の奥に蘇る優しいその声を、必死で振り払いながら。
 もう捨てたのに。あの時もらったワンピースも、あの人の思い出も。全部捨てたはずなのに。今頃になって、どうして。
 連休の終わり。春が過ぎ、夏が立つ。
 あの人がいなくても、季節は巡る。
 薄ぼんやりとした光の中に、鮮やかな色の残像は、いつまでも残り続けていた。


あとがき

天野蒼空さん(X:@sora_sendesn777)主催による空色杯(500文字未満の部)応募作品です。

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