教育大学の「師範学校化」は悪なのか?

大学の教育課程が「型にはめこむ」師範学校に回帰しているという記事。

この記事を読んで、「いや、それは違う」と私は思う。実際にそのような「師範学校」のような型にはめ込む教職課程を組んでいるところは多くない。

ここで「師範学校」とは何か、Wikipediaから参照

(引用はじめ)師範学校(しはんがっこう)とは、教員を養成する学校であり、戦前の日本および日本の統治地域に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関とされ、教員養成機関のひとつ。

1872年(明治5年)9月からの約1年間、「師範学校」は東京に設置された日本初の教員養成機関(後の東京高等師範学校。東京教育大学を経た現在の筑波大学の前身)の固有名称であった。これが1873年(明治6年)8月に他の6大学区での官立師範学校設立に伴い「東京師範学校」と改称したため、以降「師範学校」は教員養成機関の総称となった。

修了までの年限は高等小学校卒業後4年(後に5年)、中等教育課程(旧制中学校等)修了者は1年(後に2年)。師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割も果たしていた。師範学校→高等師範学校→文理科大学というコースをたどれば、学費無料で中等学校→高等学校→帝国大学というルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。

この制度に助けられた人物に、明治・大正期の陸軍軍人秋山好古や、昭和期の軍人・韓国大統領朴正煕(どちらも教師を経て陸軍士官学校入学)、朝鮮戦争で創設まもない韓国軍の若き指揮官として活躍した軍人・外交官・実業家である白善ヨプ(師範学校卒業後は満洲国の軍官学校(士官学校)に入学したため、勤務義務は免除された)、実業家五島慶太(東急グループ初代総帥、旧制上田中学卒業後、小学校の代用教員を経て東京高等師範学校→英語教師→東京帝国大学選科)らがいる(なお作家菊池寛は家庭の経済的事情で東京高等師範学校に進むことを余儀なくされたものの、素行が原因で退学処分を受け、素封家からの援助を取り付けて一高に入学し直した)。

しかし一方で、師範学校の寮生活において、学校によっては上級生による下級生へのいじめ、しごきが問題となった。そのため、全寮制を廃止した学校もあった(広島県師範学校など)。また、卒業生の中には「師範タイプ」と称された融通がきかない教師もおり、この存在は戦前においても問題視されていた。

そして戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) が米国にならって教員養成を大学で行うよう指導したこと、師範学校側も大学へ昇格する道が開けたことから、かかる指導を積極的に受け入れ、師範学校は消滅した。その結果、戦後、各地の師範学校はアメリカ合衆国の「リベラルアーツカレッジ」などを手本にして、旧制諸学校を包有した新制大学の教育学部、学芸学部として再出発することとなった。しかし、大学への移行に伴う教官の審査では、当然研究者としての実績が重視されたため、黒板の書き方や学級経営など実務ノウハウしか持ち合わせなかった旧制師範時代の教官の多くは審査の結果不適格として教壇を追われた。このためこの時期に大幅に教官を入れ替えた学校が多く、また県内の師範、青年師範のキャンパスも順次統合されていったため校風は大きく変化した。一方で多くの優秀な旧制中学校などの教員が引き抜かれ教授や助教授として迎えられた。

カリキュラムは当初「リベラルアーツカレッジ」にならって教養教育に重きが置かれ、大学によっては医学部への進学課程等も置かれていたが、戦後、小・中学校が整備されるとともに卒業生の進路も教員が主流となり、1966年(昭和41年)に改正国立学校設置法が施行されると、ほとんどの学芸学部は教職以外の分野に進むコースを順次廃止し、その名称を「教育学部」へ変更するようになった。そこに「教員養成課程」がおかれてここで主に小学校教員、中学校教員、幼稚園教員、養護学校教員(現特別支援学校教員)が養成されることになった。
一方、1980年代後半にかけ、学校教諭の採用数が減少しだし、教員養成課程の入学定員が過剰気味となって、学部を分割しないまま教員養成を目的としない教養課程などが再び教育学部に置かれることとなった。いわゆる「ゼロ免」課程であるが、2010年代に教員の大量退職が生じると、多くの大学でゼロ免課程は再び教員養成課程に戻された。

現在の制度では、あらゆる学部から教員免許を取得できるようになっている。各大学で開講される教職課程の科目を履修し、教育実習などを受けて、定められた単位を取れば教員免許の要件を満たすことになる。しかしこれに伴い教育学を専門に学ばなかった学校教員の力量不足が指摘されるようになり、師範学校的な制度を復活させるべきであるという議論も一部にはあった。しかし、専門職養成は大学院レベルで行うことが世界的な潮流であり、日本においても法曹を含む高度専門職養成のために、専門職大学院制度が導入されたことともあいまって、これからの教員に必要とされる高度なスキルの習得は大学院レベルで行うこととなった。そこで専門職大学院のひとつとして教職大学院制度が導入され、2008年4月1日(平成20年度)から開設された。薬学部のように6年制課程への改編が検討されたが、諸般の反対により実現していない。4年制のまま、実践的なカリキュラムへの改編を勧めること、10年毎に教員免許の更新制度導入が代わりに進められた。但し、更新制度は形式的な講習を受けるだけのものとなり、いたずらに多忙な教員の休暇が失われるだけで、実効性が薄いとの批判がある。(引用終わり)

教員は大半は学生時代に教職課程の単位を取りつつ、介護等体験をし、教育実習を受ける。教員採用試験を受け合格したら次年度の4月には担任として教壇に立つ。その間、大学では授業のやり方や学級経営のことを実践的に教えたりすることはあまりない。この記事に書かれているような「師範学校化」しているという論はだいぶかけ離れていると思う。

4週間(中学校・高校は3週間)の教育実習だけで、授業の仕方や学級経営、校務分掌などの教員としてのスキルを身に付けることは無理だ。それこそ大学に入ってからきっちり教えなければ、いきなり「明日から担任やって」と言われてもできるわけがない。

何事にも「守・破・離」がある。禅や武道などの教えにもあるように、まず型を身に付け、ある程度自分のものになったら「破」師匠などの指導を離れて徐々にオリジナリティを発揮し、自分自身の型を作って行く。そして最後に「離」完全に師匠などから離れて、自分独自の教師観、指導観、教育観を確立して新しい「型」を作って行くというやり方が理にかなっている。

その段階を踏まないで知識だけ詰め込んで、いきなり現場に放り込まれるのだから、新任教員は困るし苦しくなるだけである。ましてや大量退職の時代を迎え、中間層がいなくなっている時代だ。授業のやり方を教わりたいと思っても、身近に教えてくれる先輩がいなくなっている、というより管理職になってしまったりして、頼りにできない(もっとも、頼りにされたら、嫌でも教えたくないという先輩教員はほとんどいないだろうけれども)だからなおさら、大学ではスキルを教えなければいけないと思う。

民間企業においても同じようなことは普通に言われる。まずその会社の社風を教えてもらい、やり方を指導してもらい、型どおりに実践し・・・を繰り返しながら仕事のスキルをアップさせていくのが一般的だ。むしろ常識的だと思う。

そういった点からも、教育界は遅れを取っていると指摘せざるを得ない。

「言われたことだけをやる」「型どおりの指導をする」ような教員を養成しているのが今の大学であり、その大学こそ変わらなければいけないのではないかと思う。師範学校のやり方は決して悪くはなかった。ただ、その運用の仕方がまずかっただけであって、師範学校の良かった部分を取り入れつつ、先に述べたような「守・破・離」の型に沿って個々の教員がオリジナリティを持った教員に成長していくように養成していかなければいけないのではないだろうか。

誰が好き好んで「型どおりの」「やる気の無い」教員に自分の子供を預けたいと思うか。そういう教員になりたいとは思わない。

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