短編【招かれた客】小説
私があの方に出会ったのは仕組まれた運命のだったのかしれない。
私の人生の僥倖も、それによって得た地位も財も全ては、あの方に出会うためだったのだ。
イア!イア!クルウルウーフンタング!
ミルトン・フィッシャーは、いつもの様に頭の中に響く謎めいた言葉を聴きながらホルマリン漬けされた脳味噌が入っているガラス瓶を愛おしく撫でた。
ミルトンの両親はネブラスカ州の貧しいトウモロコシ農夫だった。
父は息子のミルトンにトウモロコシ農場を継がせようとしていたが、ミルトンはそれに反発し十五歳の時、家の金を盗み出しネブラスカ州を飛び出しボストンへ向かった。
ボストンで株仲買店の見習い助手となり、そこで株価の黒板書きをしながら株を学んだミルトンは世界大恐慌が始まる直前の1929年に株の空売りを行い莫大な資金を得た。
その資金を元手にミルトンはブルックリンで劇場といくつかの酒場と大きな屋敷を手に入れた。
ミルトンの唯一の楽しみは怪奇小説を読む事だった。
特にハワード・フィリップス・ラヴクラフトに深く心酔していた。
そのラヴクラフトが、ブルックリンに滞在しているという伝聞がミルトンの耳に入った。
ミルトンはすぐにクリントン・ストリート160番地のアパートへ向かった。
ラヴクラフトが住んでいるというアパートのドアの側まで来たがミルトンはノックを躊躇した。
アパートに来たもののミルトンにはラヴクラフトに合う口実がなかったからだ。
ミルトンは行動の人である。
故郷を飛び出した時も、株を空売りした時も直感と行動が密着していた。
口実なんてどうでもいい、ただ、貴方の書く小説は素晴らしいと伝えるだけでいいではないか。
ミルトンはアパートのドアをノックした。
しばらくしてドアが開き中から男が出てきた。
病的なほどに色白で面長な容貌。
全体的に弱々しい印象を纏っているが瞳の奥は力強く知的。
男はラヴクラフトと名乗った。
憧れの人物を目の前にしてミルトンは上手く話す事が出来なかった。
ラヴクラフトの方は何故か戸惑いは一切なく、ミルトンの来訪をごく自然に受け入れた。
まるで、ミルトンの訪れを知っていたかのように。
アパートの中に招かれたミルトンが見たものは雑然とした室内だった。
降ろされて光を遮断しているブラインド。
パン屑と原稿用紙が散らばっている床板。
積み上げられた書物が無造作に載っている木製の机。
生活の雰囲気はどこを探しても見当たらなかった。
ラヴクラフトは五年も前にブルックリンに移り住んでいたという事をミルトンはこの時知った。
その間、妻と離婚をした事も。
そして今年、あと数ヶ月後には故郷のプロビデンスに引き上げるという事も。
せっかく知り合えたというのに、すぐに去ってしまうとは。
ミルトンは自分の屋敷で小説を書かないかとラヴクラフトに持ちかけた。
経済的援助はすべて私がする。だから私の元へ。
ラヴクラフトは特に驚いた様子もなくミルトンの提案をすんなりと受け入れた。
それはまるで初めからそう決まっていたかの様に。
ミルトンはラヴクラフトの為に日当たりの良い部屋を用意したが、ラヴクラフトが望んだのは薄暗い地下倉庫だった。
ラヴクラフトの不気味な作風を思えば、その方がいいだろうとミルトンも考え直し地下倉庫をラヴクラフトの書斎へと造り変えた。
夜な夜な地下室でラヴクラフトと語らうのはミルトンにとって至福の時だった。
ラヴクラフトが物語る宇宙的恐怖は斬新なアイデアに満ちていた。
その恐怖はブラム・ストーカーの『ドラキュラ』やメアリー・シュリーの『フランケンシュタイン』とは全く違った新しい恐怖だった。
ラヴクラフト曰く、人類の文明を造った太古の神々は宇宙の深淵より飛来した外なる神なのだ、と。
「ミルトンさん、今までどうも有難う。明日プロビデンスへ帰ろうと思います」
ひと月に及んだ蜜月のような時間は、ラヴクラフトの唐突な一言で終わろうとしていた。
それはミルトンにとっては死よりも恐ろしい一言だった。
その言葉の衝撃は一瞬にしてミルトンの見当識を歪め意識は闇に沈み、気がつけばラヴクラフトを締め殺していた。
何という事を!
私は何という事をしてしまったのだ!
ミルトンは深い悲しみに落ちていった。
しかし、その悲しみはラヴクラフトの生命を奪ったという事に対してではなく、ラヴクラフトが創りだす宇宙的恐怖の放出をこの両手で止めてしまった事への罪悪感から込み上げてくるものだった。
イア!イア!クルウルウーフンタング!
ラヴクラフトは死すとも宇宙的恐怖の潮流を止めてはならない。
その為にはラヴクラフトの脳を取り出さねばならない。
宇宙的恐怖の神話の源流は全てこの脳の中にある。
イア!イア!クルウルウーフンタング!
イア!イア!クルウルウーフンタング!
ミルトンは三時間にも及ぶ時間を費やし、ゆっくりと丁寧にラヴクラフトの脳を頭蓋骨から取り出しガラス瓶に入れホルマリンを注いだ。
私はいつ、ホルマリンを手に入れていたのだ。
ミルトンの意識は狂気と正気の狭間に揺れていた。
最初から、こうするつもりだったのか、私は。
ホルマリンを用意し、誰にも知られない密室も用意し。
そうだ、だから私はラヴクラフトの元へ行ったのだ。
こうなることは、ずっと前から決まっていたのだ。
故郷のネブラスカ州を飛び出したあの時から決まっていた事なのだ…。
イア!イア!クルウルウーフンタング!
イア!イア!クルウルウーフンタング!
イア!イア!クルウルウーフンタング!
翌朝、ミルトンは茫然と身支度を終えた男を見つめていた。
「お世話になりました。ありがとう」
硬直し声も出ないミルトンをよそに、ラヴクラフトは何事もなかったかのように感謝を述べ屋敷を去って行った。
昨夜のあの陰惨な出来事は一体……。
ミルトンは転げ落ちるように地下倉庫への階段を下った。
そんな莫迦な!
あそこには!あの地下室には脳を乗り除かれたラヴクラフトの死体と、床一面に広がった血液が!
しかし、地下室に有るのはラヴクラフトの為に新調した樫の木のテーブルと椅子二脚と。
ホルマリンに漬けられた脳が浮いてるガラス瓶だけだった。
⇩⇩別の視点の物語⇩⇩
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