短編小説「私の音楽」
老人ホームの一室。
窓際に置かれたピアノの前に、私は座っていた。
指は震え、かつての柔軟性を失っている。
『今日も弾いてくれるの?』
看護師の明るい声に、私は微かに頷いた。
ゆっくりと鍵盤に手を置く。
深呼吸をして、目を閉じる。
最初の一音が響く。
ショパンのノクターン第2番。私の人生最後の曲になるだろう。
音符が紡がれていく中、記憶が蘇る。
40年前、私はコンサートピアニストだった。
あの華やかなステージ、観客の歓声、響き渡る一音一音、どれも鮮明に覚えている。
あの頃は、音楽こそが全てだった。
だが、ある日突然の事故で、私は右手の機能を大きく失った。
私は絶望の日々を送っていた。
ピアノを弾けない自分に、生きる意味を見出せなかった。
そんな時、一通の手紙が届いた。
かつてのファンからだった。
【あなたの音楽が、私の人生を救ってくれました】
その言葉が、私の心に再び暖かな火を灯した。
それからは、片手でも弾ける編曲に毎日挑戦した。
そして事故から翌年、自身の音楽教室を開いた。
生徒たちの上達を喜び、彼らの演奏に涙する日々。
音楽は、違う形で私の人生に寄り添ってくれた。
今、この老人ホームでも。
私の演奏を、皆が楽しみにしてくれている。
曲が佳境に入る。
かつての技巧は失われても、魂の色は変わらない。
最後の音が長く深く鳴り響いた。
鍵盤から手を離すと、静寂が訪れた。
『素晴らしい!』
『感動したわ!』
『ありがとう!』
一気に、拍手と称賛の声で部屋中が溢れかえった。
私は静かに目を開け、皆に微笑みかけた。
この瞬間、私は確信した。
音楽は決して私を見捨てなかったのだと。
そして私も、最後まで音楽を愛し続けるのだと。
看護師が近づいてきた。
『また明日も聴かせてくださいね』
私は静かに頷いた。
そう、明日も、 明後日も。
生きている限り、私は弾き続けよう。
ピアノの鍵盤に優しく触れる。
まだ終わりではない。
私の音楽は、これからも誰かの心に響き続けるのだから。