見出し画像

2024/08/09 はじめに民ありき

 これにコメントをつけた。

 そうしたところ、私のコメントに引用コメントをしてきた人が、下の引用の人である。明らかに論理の一貫性がない論点ずらしである。論破にも値しない。個人攻撃になりかねないが、一般的な話としてこれが結婚生活を自慢する人達の頭の中の実態である。家庭生活、子育て、それらが養育放棄や離婚に簡単につながるのも宜なるかなというところである。

消されるといけないので画面コピーもつけておきます。

揚げ足取りの典型。

 直にレスをつけて喧嘩を買うつもりはない。ここで書いておく。
タイムラグはあるがこの手の人と議論すれば実りがないので引用コメントは放置してある。
 引用してやろうと思ったらTLから消えていた。自デッキに記事が残っていたので貼り付けた。

 さて、

 視聴者が視ないから(求めるから)番組が変わるのか?
 マスメディア(テレビ)でなくて新聞ならどうか。

 新聞には編集デスクや方針もあるし、儲からないと思ったら紙面を少なくして健康食品の全面広告を増やす社もある。

 新聞は部数読んでもらってなんぼである。ではテレビはどうか。視聴率で出てくる。番組ごとに。番組を編成するのは視聴者のチョイスではない。局だってボランティアで番組編成していない。儲けが至上命令である。(政権の犬の某国営局は別として)

 でも、儲かれば何を報じてもいいというのはマスメディアとしての責任を果たしているのか?テレビ東京系や庶民の味方東京新聞は、ブル新の朝日新聞と違って独自路線を(叩かれても!)貫いている。

 確かに視る、読む側に寄り添うのもマスメディアだが、テレビに限って言えば、お笑い番組を求めて政治番組を切り捨てるのは視聴者の声だろうか?今の視聴者は面倒なことは嫌、重い話も嫌、ということか。新聞の読者とテレビの視聴者は大差ないと思われる。どちらも編集・編成に方針がある。儲からなくても良い、の極北がしんぶん赤旗だったりする。
フジが嫌だったら視なければいい、テレ東が嫌だったら視なければいい。彼らは痛くもかゆくもないだろう。

 ただ、マスメディアが庶民の議論のたたき台になることを考えると、お笑い番組ばかりで世界情勢や国内情勢の議論ができるだろうか。もっとも、そんな議論もせずに現政権バンザイの軽薄な話しかできない市民というのは、世界中どこを見ても、ロシアや北朝鮮みたいに政府がマスメディアを直営する独裁国家かこの国ぐらいしかありえない。

 戦時中のマスメディアと庶民の関係に触れるならば、国家総動員体制に向かって庶民が求めたと言うよりも声も上げられないぐらい締め上げられたのである。国民性というのもある。白バラ団事件のナチスドイツでもナチ軍に武装解除を求めたのは市民達だった。この国で終戦間際になって、そして玉音放送を聴いて敵の手にかかるよりは自死を覚悟したのも市民達だった。自由の味を知っているかどうかの違いである。この自由とは責任ある自由であり何をやっても良い自由ではもちろんない。その限りにおいて、戦争が終わっても自由からの逃走を続けるのが残念ながら、我が国の市民である。

 国民として政治を監視する責任と、健康で文化的な最低限の生活を求める自由、それらからの逃走の結果が芸能番組目白押しの番組ラインナップであり、その逆ではない。論点ずらしに論破というやり方は紳士的ではないし同類に見られるのでやめておく。少なくとも、その責任と自由を放棄したら元ポストのような結果になるのは眼に見えている。

 先ほどのマスメディアが先か視聴者が先かは、鶏と卵の水掛け論、本質を弁えない揚げ足取りで実りがないのでここまでにする。

2024/08/09 ここまで

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?