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〜ねばならない、と〜したい、似て非なるもの

たぶん私自身が統合失調症ゆえの生涯独身なんだけど、そういう仲間に対してたとえば、ある人が私は結婚していますから、って何の脈絡もなく言うとき、結婚とはここまで破壊力のあるパワーワードなんだなと思う。相手を選んでね。死刑宣告に近い言葉なんだから。そう感じてばかりいました。

しかし、当事者目線で言うと、わたしという主語が不明確なんですよね。なぜなら、バウンダリー、自他の境界線があいまいになっているから。そこで「みんな」が結婚で幸せになっているとかいわれると、自他がごっちゃ混ぜだから焦りやすい。寛解、リカバリーの目指すのは自他の区別もあります。#統合失調症

ただ、人を好きにならなければならないと焦るのは問題ですが、好きになるというのは人間ですから、禁じ得ない感情だと思いますよ。

〜ねばならない、と 〜たい、とは別物だと思います。 前者は義務、後者は欲求です。 私たちが学生の頃までを思い出せば、〜には「勉強」が入ったと思います。好きで学ぶ人は長続きします。 義務で続けると苦痛でしかありません。結婚生活の経験はありませんが、殊に結婚願望は欲求ではなく義務感という例外です。

私の両親をみていると(父は物故者ですが)、何だかんだいいながら互いを想っているところがあったから死別するまで続いたのではないかと思います。想うということは好きだということです。こうした人生観は親を選べないのと同様、親同士の関係性に左右されるようです。

2023/12/16 ここまで

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