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2024/04/11 長ネギハラスメント

 ひところはバゲット🥖というかフランスパンをバックに突き立てるのが流行りだった。手を伸ばすとどんなしあわせも手が届いた時代の名残かもしれない。
 かわりにこの頃は長ネギが幅をきかせるようになる。求めても手に入らない時代の象徴である。フランスパンのかわりに中指を突き立てたくなる。どこが婚活だ、どこが恋愛勝者だ?ただの時の政権に巻かれて生き延びる後述のとおりのご機嫌取りじゃないのか。つまり長ネギハラスメントである。
 こんな時代になったのはいつからだろう。変化点を探りたいが結論を先に言えばそれはバブル崩壊後といいたい。
 1980年代と言えばそのフランスパン世代だ。差が付きにくいため悪平等の時代とも表現できる。
 だが、その後の世代は本質的にしあわせを追い求めるという点において、何ら変化はないはずである。追い求めるスタイルが違うだけにすぎない。就職氷河期、ミレニアル、ゆとり、果てにはZ世代と呼ばれようが、パートナーや子孫を残したい生物学的な欲求が根源から否定される覚えはない。
 そうした根源的な欲求を制御するのが理性なら、欲求を制限し否定すらするのが時の政治ではないのか。政治はもともと、政府と国民の約束のうえに成り立つとする説もある。それは同時に、国民には国民のために動かない政府をひっくり返す権利も否定しない。ルソーの社会契約説である。
 子孫を残したいというのはいわば、生存権の一つである。それを否定する政府に対して国民は、如何にしてパートナーを作るか腐心させられるよりも真の敵を見いだすべきでないのか。時の政府は生存権を否定するために多額の税負担を生活費の少ない世帯や若者に負わせて、独立や家庭を持つ夢すらかつての世代のようには実現させないのである。単に貧困層の努力が足りなかったりや方法論が間違っているだけで、世襲の高所得者層が生存権をやすやすとクリアしていることを説明できるか。
 奇しくもフランスパンのフランスはルソーを産み落とした同じ風土から生まれてきた。若者は今も昔も求めることは変わってはいない。変わってはならない。その流れを邪魔する真の敵を面倒がらず見いだすきっかけとは。それは、おのれの生存権、パートナーを求める欲求にただひたすら忠実になる事以外なさそうである。恋愛の小手先のノウハウではなく、自分達の求めるものは何か今一度みつめ直すのである。

参考 折々のことば:3053 鷲田清一 より
https://www.asahi.com/articles/DA3S15908662.html

何かをすることと同時に、何もしないことの価値がみとめられているのも、また豊かではないか。

 (暉峻淑子〈てるおかいつこ〉)

2024/04/11 ここまで

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