見出し画像

11 幻想夜話

 零斗は無我夢中で走った。一分でも早くその音を取り戻したくて、待ちきれなかった。
 暖簾を掻き分け、戸を開ける。
「いらっしゃい、おや? 先日のお兄さんだねぇ。こんにちは」
 番頭台に膝をついて、頬杖をついていたユメは、相変わらず赤いブラジャーが見える程に胸をはだけさせた、黒の甚兵衛を着ていた。きちんと着る気など、頭からないのだ。
 紫色の瞳を細め、口角の端を吊り上げて笑う。その唇の端に、煙管の吸い口を咥えて、すぅっと紫煙を吸い込む様は、高級娼婦のような色香と退廃的な雰囲気をかもし出していた。
「師匠の記憶を返してくれ!」
 単刀直入に言うと、ユメはますます笑みを深くした。
 戸口で叫んだまま動けずにいると、その後ろからクロガネが翼を広げ入ってきた。室内をぐるりと旋回して飛ぶと、ユメのいる番頭台の片隅で羽を休めた。
「かまわないよ。でもね、お兄さんの記憶から離れていた間の心は、不安に満ち溢れていた。その影響は受けている」
 ユメは煙管の吸い口に唇を押し当てて、すうぅっと吸った。そして灰吹きに火皿に残った煙草の灰を捨てた。
 煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら立ち上がる。黒のショートパンツから伸びる素足があらわになる。裸足でぺたぺたと板の間を歩きながら、師匠の音の記憶を具現化した撥を取るために、ガラス戸へ向かった。
 一刻も早くその音を取り戻したかった零斗は、土間のほうからユメの動きを追う。
 ユメはガラス戸を開けて、零斗に見えるようにその撥をかざした。
「あっ!」
 それはすでに鼈甲(べっこう)の撥ではなかった。
 それよりも津軽三味線はおろか、長唄や 三線(さんしん)ですら使わない、異色の撥となっていた。
 黒を基準とした赤と黄と緑の斑。
「津軽塗り…?」
「そうだねぇ、これはそういうんだろうねぇ。漆塗りというものは、ところかわれば全国各地にあって、それぞれ郷土の名を冠したものがあるけれど、これはそう考えるのが普通だろうねぇ」
 ユメは目を細めて笑った。そして左の手のひらに撥を置き、右手の人差し指でそっと撫でる。
「ねぇ、お兄さん。津軽塗りの別名知っているかい?」
 鮮やかな紫色の瞳を向けられる。その表情はまるで謎かけをしているかのように、どこか楽しげに見えた。
「え? その塗りの名前はよくわからないけれど」
 そんな別名があるのだろうか? 漆塗りというのは答えじゃないような気がして、零斗は首をかしげた。答えなければ返してもらえないのだろうか? と頭を悩ませていると、ユメは目を細めて小さく笑った。
「違うよ、そんな難しいものじゃないよ。津軽塗りの別名は『馬鹿塗り』というのさ」
「馬鹿塗り?」
 率直すぎるからこそ失礼にも聞こえる別名だったが、ユメは心底嬉しそうだった。
「そうさ、馬鹿塗り。漆塗りというのは、何度も何度も塗りを重ねるものだけれど、津軽塗りは五十回近く塗りを重ねる。馬鹿みたいに繰り返すから、馬鹿塗りというのさ。もっともこれは一般に出回った名前じゃない。職人の間で揶揄されているものだけれど」
 ユメは津軽塗りの撥を手に取り、何もない手で三味線を構えるような仕草をしてみせる。
「津軽塗りというのは馬鹿というくらい、何度も何度も塗りを繰り返され、そうして少しずつ完成へ近づけていくものさ。音楽というものも、そうなんじゃない?」
 ユメの言わんとしていることの意味を、零斗はわかったような気がした。
 目指すべき音楽の終着点にたどり着くまでは、ただひたすらに演奏するのみだ。繰り返し繰り返し、時には試行錯誤を取り入れながら、理想の音を追い求め続ける日々。
 ユメがその変わり果てた撥を差し出したので、受け取ろうと思って手を伸ばすが、ユメは零斗には返さずに、その撥で口元を隠してにぃっと笑った。
「やだね、お兄さん。こいつは元々お兄さんのものさ。でもね? 『師匠の音を忘れたい』というお兄さんの欲求をかなえる代わりに、あたしが預かった品だ。こいつを取り戻すには、お兄さん。お兄さんはあたしから、これを買い戻さなければならないんだよ。返してと言っただけでは返せない。さぁ、お兄さん。対価を払ってもらおうかねぇ?」
 この期に及んで対価を支払って欲しいと言われると思っていなかった零斗は、半ば唖然とした。

10><12

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?