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03 ロード・オブ・ヘブン

 ポスティッヒの視線はその男に向けられていた。
 それを見た瞬間、イヴァンは嫌な予感が炸裂したな、と胸中で思う。
 もうすぐ日没という時間的に考えて、入国手続きはできない。つまりこの寝転んでいる男は、入国や出国手続き待ちの国民や外国人ではない。
 そもそも、ポスティッヒやイヴァンと同じ、山岳迷彩服にブーツ。間違いなく同じ国境警備隊の人間だ。
 金髪に水色の瞳。パッと見た印象は優男。寝ころんで仮眠しているだけなら、ここまで落胆はしなかっただろう。
 なにせその金髪優男は、胸の上に黒猫を乗せて撫でまわし、『んもう、リーヴィったらかわいいぞぅ、もふもふしちゃう』とかわけのわからない独り言を黒猫にぶつけ、ニヤニヤしていたのである。
「おう、ポスティッヒお疲れ。それとその後ろが新入り?」
 最初は顔だけを起こしていたが、黒猫を抱いて起き上がった金髪ダメ男は、ふにゃと目じりを下げて破顔した。
 頼りなさが倍増していた。
「イ、イヴァン・デーナーです」
 それ以上言葉が出てこない。
 小隊長と呼ばれたからには、やはりこれがイヴァンたち全員の上官になる男だ。歳は二十代後半くらいだろうか? いや小隊長という役職に就くくらいなのだから、それ以上なのかもしれない。イヴァンよりは年上なのだろうが、人懐っこい笑顔が年齢以下に見せる。
 それ以前になんで猫?
 どうして猫がここにいる?
 いやいて悪いとは言わないが、どうしてその猫を抱いているんだ、このアホそうな上官は。
 色々な疑念が頭をよぎるが、イヴァンはそれをこらえた。
「おう、よろしくデーナー。俺はライヒアルト・エーレ。国境警隊備第八小隊長兼、今回の総責任者ね。この任地は常に二つの小隊が駐在するだろ? だからどちらかの小隊長が総責任者になるわけ。もっとも肩書きだけで、権限は然程ない。むしろ責任ばっかり押し付けられる。こっちは俺の通い妻のリーヴィ。美人だろう? でも誘惑するなよ?」
 しねぇよ、馬鹿。
 そう言い返せたら、どれほど気分がいいだろうかと思った。これが上官か、なるほど殉職者も出るだろうと妙に納得する。
 そしてふと、まさか次の殉職者は自分なのだろうか? と縁起でもないことを思う。
 金髪優男風の馬鹿な上官は、黒猫を抱いて真顔できりっと見上げてきたが、如何せん、猫相手に通い妻とかアホな文言を恥ずかしげもなく口にするあたり、もう信頼度が急速に低下していく。
 初任地に着任して一番にするべきことは、遺書を書いておくことかもしれないと、イヴァンは真剣に思った。
「それでな、デーナー。着任早々悪いニュースがある」
 初任地がロード・オブ・ヘブンで、挙句に上官がアホだった、それ以上の悪いニュースがあるのだろうか?
 妙に冷めきった脱力感に苛まれていると、エーレは真っ直ぐにイヴァンを見上げた。
「訓練所で習ったように、任務に着任するときは原則二人一組での行動が基本となる。デーナーと組む相手はオイゲン・ノダックというんだが、実は今朝重度の食中毒で下山した」
「そいつを街に運んだのが俺だ」
 エーレの言質を継いだのはポスティッヒだった。
 そもそもこの場所にこんな時間帯についたのは、ポスティッヒの迎えが遅かったからだ。
 なるほど、食中毒患者を病院へ搬送していたために遅れたというわけか。
 納得していると、ポスティッヒがニヤリと笑った。
 エーレの腕の中から黒猫がするりと降りる。音もなく床に着地すると、四肢を伸ばし、緊張をほぐすかのような仕種を見せた。
「昨日までノダックの代理のバディを組んでいたのが俺なんだが、そのノダックが入院したので、今度はノダックが退院するまでは、デーナーと俺がバディになる。そう長い間のことじゃないだろうが、よろしくな」
 そう言って、アホな上官は爽やかな笑顔を覗かせたが、デーナーの中では絶望が広がりを見せていた。
 よりによって、よりによって、よりによりすぐって、初任地初任務の相方がこれか!
 そんな表情を見せまいと必死で努力した結果、無表情を保つことに成功したイヴァンだったが、逆にその無表情こそが衝撃を物語っていた。
 耐え切れなくなったポスティッヒが声を上げて笑い出した。丸太のような太い腕で、バンバンと背中を叩いてきた。思わず前につんのめってしまう。
「そう怒るなよ、デーナー? 小隊長は見た目ただのアホに見えて、やっぱりアホな部分が多すぎるけど、それでもやる時だけは少しはやるぞ?」
 その台詞のどの部分に安心する箇所があるのだろうか?
 いっそポスティッヒが小隊長で、エーレが分隊長だったらよかったのだ。いや、そうなると今日の迎えはエーレが来ていたことになる……
「おい、ポスティッヒ! おまえ上官相手に、よくそんな悪口を言えるな」
 責める割に気にしてもいないようだ。このくらいの軽口は、日常茶飯事なのだろう。言われているエーレも怒っている様子はないし、ポスティッヒもにやりと笑っていて上官に対する態度には見受けられない。
「おっと、すみません小隊長。小隊長は考えなしの能天気にお見受けし、実際その通りだけど、ちょっとは真面目な部分があるから少しくらいは安心していい、と言うほうがよかったですかね?」
 見た感じ、ポスティッヒの方が年上のようだが、実際どうなのだろうか?
 どちらにせよ、エーレは上官として尊敬されているというより、アホとして周知されているような気がする。
「どう聞いても悪意しか感じられないが?」
「もちろん信頼していますよ? なんなくは」
 どちらにせよ、聞いていると暗雲たる気持ちがこみ上げてくる。
 殺傷率の高いロード・オブ・ヘブンで、アホな上官がいる。なるほど殉職者が出るわけだ。
 確かに国境警備隊は軍隊組織ではない。しかし実際には武装が必要な程危険と隣り合わせている仕事だ。
 そんな二人の上官は微妙な表情で笑いあっていた。あまりにも微妙すぎるので、イヴァンには口をはさむ余地はない。
 もっとも口をはさむ気にもなれない程に落胆もしていたが。
「そうだ、リーヴィ。お土産だぞ」
 名前を呼ばれたことに気付いたのか、床に座っていた黒猫がポスティッヒを見上げる。ポスティッヒは小さなぬいぐるみのようなものを、ポケットから取り出した。
「あ、この野郎! 俺のリーヴィを物で誘惑しようとしているな? 逃げろ、リーヴィ!」
「ははは、リーヴィ? この誘惑はたまらないだろ? ほれほれ」
 かがんで小さなぬいぐるみを左右に振ると、リーヴィは近づいてきて飛び掛かった。ぬいぐるみに噛みつくと、ごろりと横になって暴れ出す。
「なんたってマタタビ入りだ」
 マタタビ入りのぬいぐるみに夢中な黒猫を見て、ご満悦な笑顔を見せるポスティッヒに、優男風の上官は心底悔しそうな顔を見せる。
「おのれぇ、禁断のマタタビで誘惑するなどと卑怯な!」
 責めるようにポスティッヒに指を突き付ける。床に寝ころんだ黒猫は、ぬいぐるみを噛むは引っ掻くわと大暴れをしている。最初の大人しさが嘘のような暴れっぷりだ。
 いつまで猫の様子を観察していればいいのだろうか? と呆れと嘆きと不安を混ぜ込んだ複雑な思いで黒猫を観察していると、エーレがようやくソファーから立ち上がってイヴァンの前に立った。
 思っていた以上に身長が高い。イヴァンより五センチ以上は高いので、百九十センチ近くあるのだろう。
「話が途中になった。それでノダックが急に入院したために、デーナーには夕食後からすぐに任務に着いてもらうことになった。よろしく」
 そう言ってエーレに手を差し出された。
 イヴァンはこの状況を何かの呪いなのだろうか? と思った。
 初任地は殺傷率の高いロード・オブ・ヘブン。
 上官は猫馬鹿な優男。
 あげくバディは食あたりで入院中。
 代理のバディはその猫馬鹿。
 しかも初日から夜勤という悪夢。
 考える程に悪夢のオンパレードで、逆に不幸を嘆く気にもなれない。
 引きつった乾いた笑みを浮かべ、イヴァンも手を差し出し握手を交わす。
「っ!」
 そう強く掴まれたわけではないが、見た目とは裏腹にエーレの手は硬く大きい。
 一瞬強張ったイヴァンだが、それに気付かなかったらしいエーレは、すぐに手を離した。
「食事まであと少し時間あるから、それまでは休んでいていい。あぁ、でも施設の説明は一通りポスティッヒに聞いておいて。それじゃまた後で」
 そう言って踵を返すと、マタタビ入りのぬいぐるみに夢中になっている黒猫にちょっかいをかける。鋭い爪に引っかかれているのか、「いてっ!」というエーレの短い悲鳴が聞こえた。

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