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10 幻想夜話

「うっ……くそっ!」
 弦が途切れた津軽三味線を抱えたまま、ドアに背を預けずるずると床に崩れ落ちる。床の固さと冷たさが、足元から伝わった。
「くそっ!」
 己に対する不甲斐無さと情けなさに苛立つ。そして師匠の音の記憶を失ったことを激しく後悔した。
 無くしていいものなんかではなかったのだ。
 例え永遠にその演奏に高みに到達できずに、嘆き苦しむことになったとしても。
 津軽三味線はそうであるからこそ、独自の世界観を構築して発展してきた魂の楽曲。
 元はボサマと呼ばれる盲目の男性が行う角付け芸能。目の見えぬ闇という孤独にありながら、一生涯自分が見ることができない光の世界を心象風景の中で模索し、何度も紡ぎあげては、これは違うと、まだもっと他に表現はあるはずだと、永遠にその高みを目指す楽曲だ。
 だから師匠と同じ場所にたどり着けないのは当然だったのだ。
 師匠が模索して創り上げた音楽は、師匠が生涯かけて捜し求めていた音色であり、そして自分はそんな師匠の音に魅せられながら、それでも自分にしか表現できない音を探し続ける生き方をしていかなければならない。
 それが当然のことであり、そうでなければならいというのに。
 つまりその人生の終幕を迎えるそのときに、ようやく演奏に対する答えが得られるのだろう。
 自分は納得のいく演奏が出来た人生を歩めただろうか、と。
 それを一時の苦しさから、師匠の音の記憶を渡した。師の音に魅せられたその日から、津軽三味線に惚れ込んだ心を忘れたのだ。
 そんな自分が演奏できるはずもなかった。
「返してくれ……頼むから、返してくれ…!」
  夢現(ゆめうつつ)、どちらであっても構わない。どちらであっても構わないから、師匠の音の記憶を返してくれと、零斗は願った。
 脳裏にあの質屋の女主人を思い出す。ユメは確かに『師匠さんのその音も、無くしちゃいけないものだよ、きっと』と言っていた。
 それなのに、無くしたら楽になれると言った、自分の傲慢な思いあがりに情けなくなる。
 撥を持つ手で頭を抱えた。
「返してくれ、師匠の音の記憶を……頼む、頼むから……」
 涙が頬を伝う。
 師匠の音の記憶がなければ、あの日、師匠の音に惚れたあの瞬間はなかったものになってしまう。そうすれば、今、零斗が三味線を弾く理由がなくなってしまう。
「返してくれ! お願いだ、師匠の音の記憶を返して……」
 零斗は心から返して欲しいと願った。
「っ!」
 指先に奇妙な触感を感じて、驚いたように顔を上げた。弾かれたように腕を払うと、羽音が聞こえてドキリとする。
「おまえは!」
 低い天井を舞うは漆黒の小鳥。あの不思議な質屋で羽を広げていた、クロガネという名の鳥だった。クロガネは狭い控え室内の天井すれすれを飛び回っていた。
「クロガネ……そうだろ、クロガネ! なぁ、頼むよ! 俺を店へ連れて行ってくれ! おまえの主の元へ連れて行ってくれ!」
三味線を抱えたまま立ち上がると、クロガネは心得ているよとばかりに、ドアの近くを飛ぶ。零斗がドアを開けると、クロガネは廊下へとその小さな体を滑り込ませて、どんどん遠ざかっていく。
 零斗はクロガネを見逃すわけには行かないと、三味線と撥を抱えたままで走り出した。
「あ、木田柳!」
 誰かが零斗を呼び止めた気がする。しかし今はクロガネから一瞬たりとも視線を逸らすことができない。
 師匠の記憶を返してもらうための、最初で最後のチャンスだとわかっていたから。
 弦の切れた三味線を抱えて、控え室から飛び出して廊下を駆け抜ける零斗に、奇異な視線を送る。だが今の零斗にはそれに構う余裕などなかった。
 クロガネはロビーに向かい、入り口へと向かった。零斗も入り口へと向かう。
 何度かぐるぐると旋回して、零斗が来るのを待っていたかのように見えたクロガネは、建物へ入ってくる人が開けた瞬間を利用して、すっと外へとその小さな体を滑り込ませた。
 零斗もそれに続いて外へと飛び出す。
 瞬間強すぎる太陽の光に、思わずひるむように目を細めた。目の奥に小さな痛みを感じられるほどに、今日の日差しは強かった。
「クロガネ!」
 行かないでくれと願いながら、その名を口にする。そして目を開けて周囲を見回すと、クロガネは一定の箇所を旋回していた。
「あ……」
 そしてその先にあるのは、漆喰の壁に紺色の暖簾。質屋・夢だった。

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