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12 ロード・オブ・ヘブン

03 魔の手はそっと忍び寄る

 結局エーレはコミュニケーションルームにはいなかったが、他の隊員がリーヴィと遊びたがっていたのでそこで解放し、イヴァンは食堂へ向かった。日勤の隊員たちが引けたあとなので、いつもよりも空いている。
 一週間たっても、おいしいとは言えないが食えないよりかはマシという程度の朝食は、珍しくサラダがあった。生鮮食品はこのロード・オブ・ヘブンでは貴重な食材だ。週に一度、買い出し班が下山して食糧を調達することもあれば、本部からヘリコプターの空輸で運ばれることもある。ヘリコプターからの空輸は日常品もあって、隊員たちの食料品や生活必需品の他、宿舎の中にある小さな売店に運ばれる。標高が高く、気軽に下山できない国道326号線国境検閲所では、唯一の楽しみはそれだったりする。発売日がとうに過ぎた雑誌も、他愛のない菓子も、ここでは地上にいる時よりも感動をもたらす。
 トースト二枚に珈琲。サラダに焼いたソーセージ。ついでに生ぬるいビーンズスープ。どこで食べても同じ味のトーストにサラダとソーセージは、この場所ではごちそうのような気がした。標高が高い故に、沸点が低いこの場所での料理は、煮込み料理が格別不味い。珈琲もいつ飲んでも生ぬるいのだから。
「おはよう、相棒」
「……おはようございます、ノダック先輩」
 食中毒で入院していたイヴァンの相棒、オイゲン・ノダックはイヴァンと同じメニューをトレイに載せ、イヴァンの前に座った。
 日に焼けた屈強な男ではあるが、身長がイヴァンより小さい。冬眠前にたらふく餌を食べた小熊のような男だった。
「どうだよ、ここでの生活は慣れたか?」
 そう言って珈琲を口に運ぶ。
 相棒とは言っても、退院してここに戻ったのが昨日の昼。まだ一緒に仕事をしたことがない。それまではノダックの代理にエーレがローテーションに組み込まれていた。人手不足になると、上官とて他の兵士と同じ仕事をするのが、ここ、ロード・オブ・ヘブンの流儀らしい。
 したがって、イヴァンにしてみると、エーレの方が相棒のような気がするが、エーレは元々が上官の更に上官。この国道326号線国境検閲所の責任者なのだ。今後相棒として仕事をすることはないだろう。
「まぁ、体調は慣れたみたいです」
 初日からイヴァンを悩ませた軽い高山病は、二日ほどで楽になり、五日目あたりからは頭痛も消えた。食欲不振はいまだに残るが、それはこの味のせいだと思う……数日に一回は出るこのビーンズスープは、格別にまずい。
「そりゃよかった! まだ一緒に仕事してないのに、もうお別れとなれば、俺も退院したかいがない」
「そもそもノダック先輩。なんで食中毒に?」
 食中毒ともなれば、普通集団的に発生するような気がする。なにせ調理場は一か所しかない。しかし実際にはノダック一人だけが、病院送りになった。
「いやさぁ、前に買ったパンがあってよ、腹が減っていたから食ってみたんだ」
「……ちなみに、前ってどのくらい?」
「一週間? 十日くらいかな?」
 そりゃ、食中毒にもなる。おそらくカビていた可能性が高い。
「なんでまた……」
「せっかく買ったんだし、見た目が大丈夫そうだったから食ってみた。あれだな、買ったものは早く食うべきだよな」
 言われずともわかることを言って、ノダックはトーストに噛り付いた。カリッという小気味のいい音がイヴァンの食欲を刺激し、イヴァンもまたトーストに噛り付いた。
「入院先で、ここよりマシなものが食えるかと思っていたんだが、初日はゲーゲー吐いてばっかりだし、下痢も止まんねぇし、次の日からは点滴で、ゲロみたいなオートミールしか食わせてもらえなかった」
 ガブッ、思わず頬の内側を噛んでしまう。食中毒の話題を持ち出したのはもちろんイヴァンだが、なにも食事中にゲロや下痢の話をしなくてもいいだろうにと思う。
 そして思ったところで何も言えないのが新人の悲しいところだ。喉に詰まりそうなトーストの残骸を生ぬるい珈琲で流し込む。
 対するノダックはこの手の話には無頓着らしく、さして気にもしていないようで、まずそうな顔をしてビーンズスープに手を付けた。
「そういや、アレをやられたか?」
「アレ?」
 ノダックがニヤリと笑っている。心当たりがないイヴァンがおうむ返しに答えると、ノダックは一人で納得するように頷いた。
「いやいや、まだならそれでいい。俺の独り言だと思って気にするな」
「え?」
「いいから気にせずに食えよ。な?」
「はぁ……」
 気にするなと言われても、そんな言い方をされると逆に気になるものだ。
 アレをやられたか……?
 非常に気になる言い回しだが、ノダックはそれにはもう答えるつもりはないらしく、先輩らしい国境警備隊での過去の経験談を話して聞かされるうちに、イヴァンの意識の片隅からそれは消えて行った。


 食事の後はコミュニケーションルームで映画の上映会をしていたので、イヴァンもそれに混ぜて貰った。前に一度見たことがあるアクション映画だったが、暇つぶしには丁度よかった。
 昼食後はトレーニングルームで軽く汗を流し、シャワールームへと向かう。
 いつもは誰かがいるシャワールームは、非番の日であり夕方前であるということもあって、誰もいなかった。珍しいこともあるものだ。
「ふぅ……」
 たまには一人での貸し切り状態も悪くはない。もっともこの状態が十分続くかどうかもわからない。どうせそのうち誰かがやって来るだろう。
 そう思いつつ迷彩服の上着を脱ぎ、シャツも脱ぐ。ベルトに手を掛けたところでドアが開いた。
「デーナーか……なぁ、リーヴィを見なかったか?」
 やって来たのはエーレだった。イヴァンと同じ迷彩服を着ていた。
 基本的に隊員は誰もがこの恰好で過ごす。しいて違う状況があるとするなら就寝間際、下着でうろうろしているときくらいだろう。
「いえ、ここにはいませんよ。朝なら……」
 俺のベッドで寝ていました、などと言ったらきっとエーレの目の色が変わる。
 更にもしもエーレはリーヴィの姿を、朝からずっと見ていないのだとしたら……
 そう言えば、コミュニケーションルームで離したあとは、どこへ行ったのか知らない。朝食後、確かにあの場所で映画を見ていたが、その時は誰もリーヴィの姿を見ていなかったと思もう。
 では最後の目撃者は自分になるのだろうか? いや、あのあと猫じゃらしを片手に遊んでいた同僚が最後のはず……しかし彼は別の分隊で、夜勤明けでくつろいでいた。自分のところでないことは確かだが、名前がわからない……
「朝、なんだって?」
 言い淀んだからか、エーレが扉を閉めて中に入ってきた。ずんずんと近づき、イヴァンを見下ろす。
「あぁ、えーっと……コミュニケーションルームで見ましたが、そのあとは見ていません」
「本当に?」
「はい」
 これは確かに事実だ。嘘はついてない。
 その前にドアの隙間から勝手に部屋に入ってきて、イヴァンのベッドで丸くなっていたが、そこは話さなくてもいいだろう。というより話したくない。
「俺の目を見ろ、デーナー」
「え?」
「本当に見ていないんだな?」
「はい」
 じっと見上げて返事を返す。しかしいったい何だってそこまで疑われなきゃいけないのだとイヴァンは思う。
 すると目の前に迫ってきたエーレがふっと少しだけ屈み、イヴァンの耳元で低く囁くように言う。
「嘘はついていないよなぁ?」
 まさか、見透かされている!?
 思わず心臓がどきりと跳ねそうだった。こう見えて、観察眼は鋭いのがエーレだ。
「う、嘘じゃないです! あ、あの、朝、廊下で見かけたのでコミュニケーションルームに連れて行って、そこで離したので……」
「さっきはそう言ってなかっただろ? コミュニケーションルームで見たとは言ったが、廊下で見かけたとは言ってなかったよね?」
「!」
 がしっ! と抱きしめられるように背に腕を回されて、逃がさないとばかりに左の手首を掴まれた。
「嘘をつくような悪い子にはお仕置きだ」
 耳元で囁くように低い声で告げられて、イヴァンはぞっとする。
 そこまでされるほどの嘘だったか!? 実際最後に見たのはコミュニケーションルームであって、イヴァンがリーヴィを連れ回しているわけじゃないというのに!
 それよりなんだこの体勢!? 状況が読み込めないイヴァンは、抵抗らしき抵抗ができない。
「うわぁぁっ!」
 おもむろに耳たぶを甘噛みされ、イヴァンは悲鳴を上げた。気持ち悪さが一気に駆け上がり。
 そして今朝のクラナッハとケルツの忠告を思い出した。
『やっぱりここは男しかいねぇから』
『こんな冗談ですまさない連中もいるからね。気を付けるんだよ、イヴァン君』
 二人の忠告が脳裏によぎる。
「しょしょしょ、小隊長!?」
 思わず叫んだ声が裏返る。
「黙れよ、デーナー」
「ちょっと、あの、俺はっ!」
 エーレの唇がイヴァンの首筋を辿る。一気に鳥肌がたった。
「無理です! 俺は、無理ですって!」
「お仕置きだと言っているだろ、デーナー。いや、イヴァン?」
 ちらりと顔を上げうっすらと笑う。その目に浮かぶのは、あの二面性、殺気を含んだ冷徹さと、その状況を楽しむかのような愉悦。
 イヴァンは羞恥のせいで赤なり、そして嫌悪と恐怖に蒼白な、非常に面白い状態になっていた。
「やめてください! 本当に嫌です!」
左手はがっちりと手首ごと押さえつけられている。逃れようにもびくともしない。まだ比較的自由になるはずの右手は、腕ごと抱きしめられるように包囲され、肘から先しか動かせない。
「うるさいな? それとも黙らせて欲しいのか?」
「っ!?」
 それはつまり!?
 エーレの顔が近づいてきた。もう恥も外聞もないし、上官であろうとなかろうと関係なかった。
「いっ!」
「離せぇぇ!」
 エーレの金髪を唯一自由になる右手で、むんずと掴んで引きはがそうとする。おかげでエーレは仰け反る体制になった。
「いってぇ! こら離せ」
「そっちこそ離して下さい! 俺にその気はないんですっ! それにリーヴィがどこにいるのなんて知りませんし、自分の部屋に閉じ込めておかなかった小隊長が悪いんでしょうがぁぁぁ!」
 ガツン!
 逃れるために、イヴァンはエーレに向かって頭突きを見舞う。当然仰け反っていたエーレは顎に頭突きを食らい、「んがっ!」という悲鳴を上げて倒れた。その隙にイヴァンは上半身裸のままでシャワールームを飛び出した。

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