01 蘇芳
辺りは朝靄に包まれている。
太陽も昇りきらぬ早朝、池のほとりを一人の男が歩いて来る。
紺色の長襦袢に渋い 浅葱色の着物。歳はまだ若いがその和装は堂に入っていて、着崩れたところもなければ、違和感もなく着こなしていた。
髪は癖のないカラスの濡れ羽色、切れ長の涼しげな瞳は栗皮色。右目にだけかけられた、金色のフレームの片眼鏡が印象に残る。早朝だというのに、眠そうな気配は微塵もない。
顔立ちは凜としていて、結構な美丈夫と言える。
彼の名は 西園寺蓮也(さいおんじ れんや)と言って、人形工房 花車堂の主人であり、人形師でもあった。自らの手で人形を作ることもあれば、操ることもある。また花車堂には、時として日本人形のみならず、西洋人形や能面なども置いてあった。
花車堂の主人は、片手に 手提げ盆を持っている。そのままお気に入りの岩に腰かけると、傍らに手提げ盆を置いた。
手提げ盆には 煙管を吸うための道具が一揃え収められており、西園寺は 雁首と吸い口が金色の、 羅宇の部分が竹でできた煙管を手に取った。刻み 煙草を取り出して、小指の先程の量を雁首に詰める。それから陶器でできた火入れから、慎重な手つきで雁首に収まった刻み煙草に火を落とした。
「……」
ゆっくりと紫煙を吸い込む。
その横顔は物静かだがどこか恍惚としていて、夢と現をさ迷っているかのようでもあった。
そして吸い込んだ時同様、ゆったりと煙を吐く。
紫煙は朝霧にゆるりと溶け込み消えていく。
そして再びゆっくりと吸い込む。
官能的な程、物憂げな表情を浮かべて、片眼鏡の人形師は煙を吐く。
三度吸い込む直前、東の空に黄金色の朝日がようやく顔を出し、朝の始まりをひそやかに告げる。
やや眩しそうに目を細め、西園寺は最後の一口を味わうように、ゆっくりと吸い込むと、ため息を漏らすようにそっと息を吐いた。
雁首の中の刻み煙草はもう灰になっている。
西園寺は緩慢な動作で、煙管を持つ右の袖を手繰り寄せ、煙管の雁首を竹筒でできた灰吹きに、軽い仕種で落とす。
まだ肌寒い白い朝に、ウグイスの鳴き声が山野に響き渡る。西園寺は目を閉じて耳を済ます。
外はすでに一面の春を迎え、この霧が晴れれば桜が満開の見頃を迎えているだろう。
風が木の葉を揺らすサラサラとした音は心地好く、ウグイスだけではなく、様々な野鳥の鳴き声が耳に心地好い。
次に目を開けると、先程までの恍惚とした表情は消え、冷ややかな印象を与える程、感情の起伏を感じさせるものがなくなる。
それはまるで人形のように、そして能面のような、冷たいものであった。
だがそれも一瞬のこと。
再び刻み煙草に手を伸ばしたときには、ごく普通の青年の顔に戻っていた。
再び煙管をくゆらせようとした片眼鏡の人形師だったが、しばしの逡巡の後、刻み煙草に手を伸ばすのはやめ、煙管を手提げ盆に戻した。
それから肘のあたりに顔を近づけて、匂いを嗅ぐ仕種をくり返す。
「煙いかな?」
花車堂には煙草の煙をひどく嫌う子がいるのだ。それでなくとも煙いといって、主人であるはずの西園寺が、店の中で煙管を吸うことを許してくれない。店にいるときは、仕方がないので店の奥の工房で吸うか、玄関の外に出て吸うことになっていた。
そこまで徹底的に煙草の香りを嫌うので、極力日中は吸わないように努力している。そのためこうして早朝、住居から手提げ盆を片手に、庭の池のほとりの岩に腰かけて、短い喫煙の時間を楽しんでいるのだ。
煙が気になるような時は、自宅近くにある茶室に向かい香炉を焚く。麝香の輪郭のない、それでいて印象に残る香りが着物に移り、煙草の香りは消えてしまう。
ついでに抹茶の一つでも立てると、個人的に気分が落ち着く。
「……」
もう一度煙管を吸って、茶室の香で煙草の匂いを打ち消すか、それとも潔く煙管を諦めるか。
どちらにするかしばらく悩む。
だが結局煙管を吸うのはやめることにし、腰を上げた。そして手提げ盆を片手に、元来た道を引き返す。
朝霧は朝日が昇るのに合わせて、その濃淡を淡いものへと変えていく。そうなることで池のほとりの風景も見えてくる。
朝霧の向こうには、赤い葉を同時に出した山桜が見頃を迎えていた……
何もかも終わりだ。
ちくしょう、何で俺の人生こうもツイてねぇんだろ?
地元の小・中・高を卒業して、俺は迷う事なく上京した。専門学校に通う友達のアパートを頼りにして、後先考えずに家を飛び出した。
東京へ出れば、仕事はすぐに見つかって、何もかもうまく行くと信じていた。田舎の安い仕事なんてクソくらえだ。何の刺激もなく、毎日毎日退屈に、同じ事の繰り返しの生活なんて俺にはまっぴらだった。
俺はおまえらのように、田舎にしがみついて退屈な毎日なんて送らない。時給八百円のアルバイトも、月給十五万の工場の仕事も、絶対にごめんだ。
東京へ出たら何の仕事でもいい。とにかく稼げる仕事をするんだ。例えアルバイトをしてだって、時給千円は当たり前だぜ?田舎とは雲泥の差だ。
俺は田舎の人間を負け組だと思っていた。びくびくして外へ出ていけない、臆病者なのだと。
だがどうだ?
蓋を開けてみれば東京程冷たい街はない。田舎から出てきた何の取り柄もない俺を、雇ってくれるところなんてどこにもなかった。
『君ねぇ、少なくともねぇ、標準語で話してくれなきゃ』
最初に面接に行ったところの企業で、あからさまに見下すような目付きで見られた。
それはまるで薄汚れた野良犬を見るような目付きだった。
『悪いけれど、うちは大卒しか雇ってないんだ』
次に面接に行った会社では、すでに俺を人間とは見ていない目付きだった。
「身の程知らずが」という、そんな声なき声が聞こえる気がした。
面接は次々に落ちて、結局はコンビニのアルバイトでもいいと思った。
田舎を出る時に持ってきた金は底をついて、友達は『大丈夫だから、居ていいから』なんていいながら、迷惑そうな表情を浮かべていた。
俺はひどく焦り、とにかく仕事をしたいと思った。
八回目のコンビニの面接は、神経質そうな男だった。
『試用期間中は、時給七百円になるけど、それでもいい?』
その時微かに笑っていた。
ちくしょう!
人のことを田舎者だと馬鹿にしやがって! 爪が食い込む程拳を握む。俺は『はい』と答えるしかなかった。
そこでの俺のシフトはきつかった。休みなんてありゃしない。働いても働いても時給が他の奴らより安いもんだから、ちっとも稼げやしねぇ。
しかも俺の休みは同僚の奴らの都合で、あっという間に変更させられて、日勤と夜勤が連続して続くなんて日も多々あった。
ちくしょう!
ちくしょう!
ちくしょう!
田舎者はそんなに悪いのか?
地方出身ってだけで、どうしてここまで見下されなきゃならない?
くそくらえだ!
みんな俺のことを馬鹿にしている。どいつもこいつもくそくらえ!
しかもそのうち、大丈夫だと、部屋にいていいと言っていた友達は、彼女ができて、同棲したいから出て行ってくれと言ってきた。
何が大丈夫だよ。しかし転がり込んでいたのは俺の方だ。満足に家賃も払わないんじゃ、追い出されてもしかたがない。
公園のベンチに寝転んで、そこからバイト先へ向かい、仕事の合間に安いアパートを捜したが、敷金や礼金を払う金なんてどこにある?
だから俺は消費者金融で金を借りた。
審査は簡単に通った。俺は迷う事なく借りた。
そんなに高額じゃねぇし……ほら、バイト代が入れば少しずつでも返済していけばいいんだし……
そう考えた俺は甘かった。
違法金利に目まいがする。トイチ、十日で一割もするなんて、知らなかったんだよ。
借金はあっという間に膨らんだ。返済しきれない金額になる前に、別の消費者金融で借りて、返して、また別のところで借りて、返して……
あぁ、どうすんだよ?
こんな金額返せねぇよ!
二百万だって? そんな金があったら、とっくにアパート借りてるよ。
あぁ、どうすればいい?
店に返済を迫る電話が何度もあった。
結局俺はそれでクビになった。土下座してまで辞めさせないでくれって頼んだのに、店長は聞く耳を持たなかった。
携帯はとっくに止められた。
大見栄切って田舎を飛び出してきた。今更田舎に帰れない。
公園にはあいつらがいる。金を返せと執拗に迫る。
それだけじゃない。田舎に電話して、金を送って貰えと脅す。そして従わないと殴って蹴られて、殺して山の中に埋めるぞと脅される。
もうそんなのごめんだ!
もう嫌だ。
何もかも嫌だ。
田舎暮しも都会暮らしも、全部、全部、全部、俺には向いてないんだ。
俺にはもうどこにも居場所なんてないんだ。
この世界のどこにも。
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