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08 幻想夜話

 三の糸がスカ撥となり、音が抜ける。皮に撥が当たり、カッと乾いた音を立てた瞬間、零斗は我に返った。ありえないミスだった。
 それと同時に頬を大きくびんたされる。沙織が零斗の頬をぶったのだ。
 思った以上に強い力だったので、椅子から転げ落ちそうになるが、そこは辛うじて足に力を入れて踏みとどまった。沙織の思いがけない行動に茫然としてしまい、声すら出なかった。
 すると沙織は大きく溜め息を漏らした。
「この騒音はなんなの、木田柳零翔。こんないい加減な音の羅列、演奏でもなければ伴奏でもないわ。こんな屈辱は初めてよ」
 ゆっくりと顔を上げる。沙織は腰に手を当てて、仁王立ちになって零斗を見下ろしていた。
 演奏会では着物を着用する沙織も、普段の練習では髪を後ろでまとめただけで、ジーンズにティシャツと楽な格好でいる。当然といえば当然だが、その格好で民謡を唄うのだから、見慣れない人間には違和感があるだろう。
 民謡歌手の沙織とはここ五年組んでいる。しっかりとした声量とメリハリのある歌は、津軽三味線の三つ物や五つ物の中にある唄のある楽曲を、完璧に歌い上げる。津軽の冬の厳しさを、春の桜とりんごの花のような華やぐ思いを、津軽富士と名高い岩木山の気高さを、それぞれに歌い方で表現できる。
 歌い手は年々減少していく中で、時雨坂沙織という歌い手は、彗星のごとく現れた民謡会の新星だった。
 沙織と組んでみたいと思って、零斗から近付いた。しかし沙織は誰からも請われる程の歌い手であり、専属の相手とは歌わない。
 特に津軽三味線における唄と三味線の関係は、唄が上位になる。歌い手が次々に仕掛けていく唄に合わせて、演奏者は即興で音を繋いでいく。そのため演奏者にはどの瞬間にどんな唄を仕掛けられようとも、すぐに対応できるための機敏さと、音を途切れさせない技術だけではなく、楽曲に対する深い知識が必要となる。
 そして歌い手が津軽三味線の演奏者を奮い立たせ、津軽三味線の演奏者が歌い手の世界を引き出し、歌い手は津軽三味線の演奏者を伴って、新たな唄の世界を作り上げる。
 どちらかが一瞬でも集中力を切らせば、その音の世界はもろく崩れる。そのため、一曲を演奏し終えるまでは、呼吸すら忘れるほど集中しなければならない。
「それでも木田柳の名を継いだ者なの?」
 沙織は責めるように言った。そしてその台詞を聞いた瞬間、零斗はかっとなった。師匠から継いだその名は、今は誇りであるより先に重荷でしかなくなっていた。
「うるさい! 黙れ!」
 思わず反射的に怒鳴っていた。自分でも怒鳴った直後に、マズイと、そう思う程度には最低の反応だった。
 だが気の強い沙織は、一瞬その声に竦んだようだったが、今度は拳を固めて零斗の頭を叩いてきた。
「気の抜けた伴奏で、先にあたしを侮辱したのはあんたでしょ!」
 ガツン、と後頭部に響く衝撃は、何も物理的なものだけではなく、その言葉も十分に威力を持っていた。
 侮辱したわけではない。しかし気が抜けた演奏をしていたことは、零斗自身否定できないことだった。
 あの日、質屋・夢に「師匠の音」の記憶を預けた日から、前以上に納得の出来る演奏から遠のいていた。
 師匠である木田柳翔樂のことは忘れていない。そう、何一つ。どんな演奏をする人物なのかも頭ではわかっていた。
 それなのにどうしても演奏そのものが思い出せない。無声映画のスクリーンを見ているように、演奏をする師匠の姿を思い出せても、「音」だけが思い出せないのだ。
 あれほど師匠の音の呪縛から解き放たれたくて、忘れたいと願っていたはずなのに、いざ忘れてしまうと、師匠の音を聞きたくてたまらない。
 しかしどうしても恐ろしくて、生前録音しておいた音声を再生することは出来ずにいた。
 聞けばまた圧倒されるのだろうか? そして遥かな高みに到達したその演奏に嫉妬し、そこへ辿り着けない自分に絶望するのだろうか?
 師匠の演奏を聞きたい、いや聞いてはいけないと葛藤しながら、自分だけの演奏を模索することに没頭してきたのだが、本当はまったく没頭しきれていなかった。
 自分はどんな演奏をしたいのか、どんな演奏を目指しているのか、今ではすっかりわからなくなっていた。
 撥を持つ手で叩かれた頭に触れる。沙織が更に前に踏み込んできたので、今度は蹴られるのではないかと危惧し見上げると、沙織は瞳に涙を浮かべて、今にも泣きそうな顔で零斗を見下ろしていた。
「ばか」
「沙織……」
「ばか!」
 ついに堪えきれなくなった涙が頬を伝う。その涙が零れ落ちる前に沙織は零斗に背を向けて、足早に稽古場の出口へと向かった。
「沙織!」
「ばかなんだから! 何に悩んでいるのか知らないけど、何も話したくないなら、あたしに気付かれないくらい完璧な演奏してみせなさいよ! 何も教えてくれないくせに、悩んでいる姿だけ見せられても、困るのよ! あたしじゃちっとも力になれないって、そう言われているみたいじゃない」
 沙織はそう言い残して飛び出した。零斗にはその後姿を追いかけることができなかった。椅子から半ば浮かしていた腰を、すとんと椅子に下ろす。そして溜め息をついた。
 自分はどうしてこんな演奏しかできなくなっていたのだろう?
 自分が目指した音は、どこにあるのだろうか?
 零斗は深く、そして長く溜め息をついて、三味線を抱え込んだままうつむいて目を閉じた。
 中学一年生から師匠の自宅に押しかけた。弟子は取らないと頑固に突っぱねる、生粋の津軽衆の師匠の元へ弟子入りするのは容易ではなかった。
 練習用の花梨で出来た胴の三味線を手にするために、正月のお年玉のすべてと新聞配達で得た小遣いをつぎ込んで、ようやく手にした始めての津軽三味線。
 来る日も来る日も練習しながら、どうしても師匠と同じ音が出なくて、悩んでいたこともあった。
 毎日通った。母親に作ってもらったおにぎり一つを夕食に、玄関先に座り込んでいた。帰れと突っぱねる師匠だったが、毎日そんな生活を繰り返した。晴れの日も雨の日も。やがて季節が変わり、雪が降るようになった頃、根負けした師匠が始めて自宅に上げてくれた。それがとても嬉しかったことを、零斗は今でも覚えている。
 それから週末は泊り込んで練習した。口下手な師匠はあまりとやかく言うような人でなくて、ただ自分が弾いている曲をまねして弾けと、それだけだった。
 現在、津軽三味線は楽譜がある流派もある。しかしながら師匠は楽譜で習った人ではなく、口伝で楽曲を習得した人だったため、逆に楽譜を読むことができない。したがって零斗に教えるのも「見で聞いで覚ええねば *まいね(*だめだ)」と言うだけで、楽譜を使うことなく、演奏技術そのものを教えるような人ではなかった。耳で聞いて覚え、目で見て技術を盗め。
 そんな昔ながらの教え方をする人だった。
「チクショウ………」
 誰にともなく悪態をつく。
 師匠の音に惚れて、この世界に入った。
 師匠の音に憧れて、その無骨な背中を追いかけた。
 そして師匠の音が偉大すぎて、今は歩みだすことが出来ない。
 自分の目指すべき道がわからずに、途方に暮れている。
 零斗は深く息を吐いた。そして「 *なぁんぼな(*まったくなぁ)……」という師匠の口癖を久しぶりに口にして目を閉じた。

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津軽衆……津軽弁で生粋の津軽人のことを指す。口下手で頑固なところがある人、噂をすると来る人、食事などで最後の一口を残す人など。作中では口下手で頑固な人という意味で使っている。

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