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06 幻想夜話

 確かに自分の体に、ユメが手を埋め込んだその瞬間を見ていた。
 その恐怖は拭えず、そのまま体勢を元に戻すこともできないまま、零斗はユメを見ることしか出来ない。
 瞬間的に生まれた恐怖に割って入ってきたのは、漆黒の翼の小鳥だった。
 それまでユメの頭にいたそれは、ぱたぱたと飛び立って、零斗の目の間の板の間に降り立った。そして首をかしげて「ピ?」と小さく鳴いた。
 まるで大丈夫? と心配されているような気になり、零斗は肺の奥にたまっていた呼気を恐怖と一緒に吐き出した。
 そうだあれが現実なわけがない。きっと手品かなにかだ。そうに違いない。目の錯覚だ。そう思おうとした。
 ユメは座りなおして煙管の火皿で燃え尽き灰に変わった刻み煙草を、囲炉裏端にこんと雁首を軽く叩きつけて落とした。煙管は刻み煙草を詰めた分しか吸えないので、そう何口も吸えるものではない。せいぜい二度か三度、その程度で喫煙は終わってしまう。
 そして煙管を煙管盆に戻したユメは、もう片方、そう零斗の胸に埋め込んだように見えた手に、透き通るようなあめ色の鼈甲の撥を持っていた。
 鼈甲自体が高値であるうえ、あまり市場に出回らない。現在では入手の困難さのために、象牙なども出回っているが、その象牙も入手困難だ。しかし津軽三味線の演奏は、弦に撥を叩きつけるように演奏するため、鼈甲のような硬い撥が好まれていた。
 そしてそれによく似た撥を零斗は知っていた。
「そ、それは……」
「師匠さんの音」
「えっ!」
 ユメは鼈甲の撥をかざして見上げた。そして口元に微かな笑みを浮かべる。
「透き通るような美しさと、力強いぶれることのない音。広い海のような、そして深い海のような、時におおらかで優しくすべてを迎え入れ、時には残酷なまでに荒々しくすべてを飲み込みねじ伏せるような、そんな演奏するんだねぇ」
 ユメは鼈甲の撥を見つめながらそう言った。まるで今そこで師の演奏を聞いているかのように。
「どうするの? これ、質に出すかい?」
「え? だってそれは」
 まさか本当に自分の胸の中から取り出したとは、にわかには信じがたい。飲みすぎがたたって、酔っ払って夢を見ているのだろうか? そう思ったくらいだった。
「あたしが君から取り出した、師匠の音を具現化したものさ。三味線そのものとはならなかったのは、三味線という道具の特色のせいだね」
 三味線は消耗品だ。
 どれほどの管理をしようとも、精々数年で使えなくなる。弦は何度でも張り替えられる。しかし胴の皮の張り替えに、三味線自体が耐えられない。見た目は変わらずとも、音が変わる。更にその皮は犬の皮。他の三味線が猫といわれるが、津軽三味線は犬の皮が主流。力強い音を響かせるには、必要不可欠だった。今は代用品となる合成の皮もあるが、そうした三味線は鳴かない。
 まったく音が違うのだ。
 だから音に変調を感じた時点で、すぐに演奏家は三味線を変える。あまり変えないのは撥くらいだ。
 そしてユメが手にしている撥は、確かに師である木田柳翔樂の愛用していた撥にそっくりだった。
 だからといって自分の体の中から撥が取り出せたとはやはり思えない。
 何かしらの手品を見せ付けられている気分だった。
「さぁ、どうする? 忘れたいのでしょう? この音色を」
 ユメが目を細めて笑う。零斗はその紫色の瞳から目を逸らせず、息を呑んだ。
 師匠の音に惹かれ愛し、魅入り、聞惚れ、そしていつしか呪縛となり足かせとなった。
 師匠の演奏を聞くほどに、自分の演奏の拙さを知る。大きなもの、小さなものと問わずに出場したコンクールで、それなりの入賞を果たしても、心はまったく満たされない。周囲に認められるほどに、「違う、こんな演奏を褒めたりしないでくれ」と、叫びたくなる程に。
 師匠の音が消えない。
 忘れたくても忘れられない。
 桜咲く、津軽の春。師匠は静かに息を引き取った。病に肉体を冒されていたことを誰にも告げず、たった一人で闘病し、そして一人で息を引き取った。
 死に際まで師匠らしい最後だった。
 師匠はいつだって零斗に背を向けたままだ。
 どれ程その演奏を愛しても、それに応えるような真似はしない人だった。表舞台に立つことを嫌い、コンクールなどに出場することはほぼなかったが、彼が開く演奏会はいつだって満員だった。
 忘れたくても忘れられない。なぜなら忘れたくない自分もいるから。
 でもだからこそ音の幻聴がいつまでも自分を苛む。その程度の音で師匠の音に近付いたつもりかと。
「……できるわけがない」
 苦しげに表情を歪め吐き出すとユメはふっと微笑を浮かべた。
「できるよ」
 パタパタと黒い羽を広げてクロガネが飛ぶ。しばらく店内を旋回し、やがてユメの肩に止まった。
「こいつはあたしが預かろう。お兄さんは望み通り師の音を忘れられる」
 ユメはそういうと立ち上がり、零斗がいる方向とは別の場所へと歩き出し、ガラス戸に鼈甲の撥をしまった。
「取り戻したいと思ったら、早く取り戻しにおいで。そうじゃなきゃ、他の誰かが買い取ることもあるからね」
 振り返ったユメはそう言って、小首をかしげた。
 零斗は信じられないとばかりに首を振った。
「からかわないでくれよ、さっきの手品といい………」
 笑い飛ばすことも、怒ることもできるのに、零斗にはそれが出来なかった。
 なぜならそれは、あの撥があまりにも師匠の愛用していたものに似ているから。
 もちろん似たような撥はおろか、同じ職人のところで買った結果、デザインが類似していることもあるし、場合によってはまったく同じデザインということもある。
 だが師匠のそれは師匠の注文に応じて作ったものであり、世界に二個と同じものはない。
 それをずっと見ていた零斗が忘れるわけがなかった。
「やれやれ、お兄さんは頑固だねぇ?」
 ユメは口元に手を当てて小さく笑った。
「だったらこう思いなさいな。まるで夢でも見ていたようだった、とね」
 ユメが零斗を指差した。するとクロガネが零斗目指して翼を広げて飛翔した。迷いなく飛ぶ鳥は、漆黒の翼を広げて零斗の眼下に迫ったため、思わず目を瞑って顔を背けた。
 その瞬間、騒音が零斗の耳に飛び込んだ。

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