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02 幻想夜話

 最悪だ。
 零斗(れいと)は今日の自身の演奏を思い返して溜め息をついた。
 十一月の木枯らしの吹く晩秋。めっきり冷え込む空気は、酔った頭をまたたくまに冷やしていく。モスグリーンのハイネックの薄いセーター、黒のジャケットに紺色の姿デニム姿。特に目立った服装でもなければ、泥酔しているというわけでもない零斗に、視線を向けるものなどいない。
 零斗は再度深く溜め息をついた。
 まったく思い通りの演奏とはならなかった。
 ミスした箇所などどこにもない。ただ聞くだけならまったく問題のない演奏だった。
 津軽三味線の演奏者、 木田柳零翔(きだやなぎ れいしょう)というのが師からつけてもらった名だ。本名の松井零斗の零の字以外は、すべて師匠である木田柳 翔樂(きだやなぎ しょうがく)に与えてもらったものだった。
 零斗が私事した木田柳翔樂は、大きな大会や賞とは無縁の演奏者だった。本人がそうしたものを嫌い、年に数度の演奏会がもっとも集客数を誇る。それ以外は地方の小さな民謡大会や、小さな演奏会、慰問会、または生演奏を聞かせる居酒屋で弾いているくらいであり、決して名人として大成した人物ではなかった。
 しかし演奏の腕は本物であり、木田柳翔樂の演奏を聴きたいという目的だけで、全国各地から彼の住む地元を訪れ、いつ演奏しているのかわからない居酒屋に通うファンも多い。
 そして零斗は気難しく、弟子を取らないことで有名だった、木田柳翔樂の最初で最後の弟子だった。
 そのため木田柳翔樂の音を知っているものには比べられる。翔樂の音色を知らず、その名声だけを聞きかじった人間には、もてはやされる。
 常に付きまとうのは木田柳翔樂の弟子という肩書き。
 偉大な師匠を持つと永遠に、その名声が取り付いてくるようだった。
 今日の演奏会もそうした評価の末、得た一位入賞。
 ミスのない音の運びは安定しており、演奏にまったく不安要素はない。しかし零斗自身は目指した演奏とはならず、ただ悔しさだけが渦巻いており、それなのに一位入賞という結果に自分が腹を立てていた。
 ある者はその結果を妬み、実力ではなく師匠の名声を利用して得たものだと言っていた。
 そしてまた別の者は、さすが木田柳の愛弟子であるだけだともてはやした。
 零斗自身が思ったことはただ一つ。
 最悪な演奏だったということだけ。
 追い求める音には余りにも遠く、求めれば求める程に遠ざかる。津軽三味線は自身の心が反映されるだけではなく、生き様からすべての人間性が映し出される弦楽器だった。
 自らの未熟さを恥、そして越えられない壁の高さに絶望した末、零斗は現実から逃げるように酒を口にした。酔っ払っている間は、あの調べを忘れられるような気がして飲み続けた。
 けれどだめだった。
 ふと流れたBGM。店員が有線放送のチャンネルを変えたその一瞬に聞こえた津軽三つ物の一曲、津軽じょんがら節と思われるたった三音タンタンタンとした響き、それが聞こえた瞬間に指が反応した。BGMは流行のポップス曲に変わったけれど、頭の中に響き渡ったのは、流行曲ではなく、師匠の弾いた津軽じょんがら節。流れるような音の調べ、そして迫り来る音の洪水。
 師匠の演奏は聞くものを別世界へ誘うという優しい音ではない。別世界へ強引に連れ去ってしまう程の力溢れる演奏をする。それが木田柳翔樂の演奏だった。
 それがぐるぐると酔った頭の中を駆け巡っていた。
 たまらなくなって、逃げるように清算して居酒屋を後にした。
 それでも音が追ってくる。当然だ。零斗はこの音を嫌という程、覚えているのだから。
 誰よりも近くで、誰よりも多く木田柳翔樂の演奏を聞いたのだ。忘れられるわけがない。
 どこへいても思い出せるほどにこの音に魅了され、聞き入った。
 今はただ、自らを苛み、ただ重苦しいものと成り果てようとも。
「だめだな……」
 酒が悪い方向へ入ってしまったらしい。普段は考えないようにしていることばかり考えてしまう。
 いっそもう一軒、今度こそは泥酔するだけ飲んでしまおうか?
 しかし新聞記事に載るようなことはしたくないなぁと、すぐに思った自分の理性的な部分に苦笑してしまう。
「ん?」
 漆喰の壁に紺色の暖簾。それだけしかわからない店が視界に入った。
 何屋だろう?
 工芸品か何かを扱っているのだろうか?
 そんなことをつらつらと考えながら、なんとなくといった勢いで、零斗は扉を開いたのだった。

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