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01 ロード・オブ・ヘブン

「もうすぐロード・オブ・ヘブンだぞ」
 運転席からそう声を掛けられたイヴァン・デーナーは、ハンドルを操る同僚であり、そして上官にあたるディートマル・ポスティッヒを見た。灰色を基調とした山岳迷彩服に身を包むポスティッヒの二の腕は、丸太のように太くて逞しい。短く刈りこんだ黒髪に黒目の強面だが、初対面の時からよく笑う気さくな先輩という印象だった。
 これから一年間、イヴァンの上官になる男だ。うまくやっていけそうだとイヴァンは思う。
 ポスティッヒも一瞬だけ進行方向から、助手席に座るイヴァンを見た。そして白い歯を見せてからかうような笑みを浮かべた。
「さすがに緊張してきたか? おっと!」
 舗装が剥がれ陥没した穴に車輪が取られてしまい、走行する四輪駆動車は大きく跳ねあがった。危うく舌を噛みそうになりながら、イヴァンは首を横に振った。茶色い前髪が少しだけ揺れる。
「いえ、緊張というよりも、思っていた以上に登るなぁと」
 イヴァンはそう言って再び視線を窓の外に向けた。茶色い瞳は黄昏を映し出し、琥珀色にも見える。顔立ちは可もなく不可もない。どこにでもいる普通の青年だ。
 恋人は八か月前に別れた。訓練の忙しさから会う暇もないままでいたら、好きな人ができたので別れたいと告げられた。さらに『一人ぼっちにして、放っておいたイヴァンが悪い』と責められた。先に浮気をしたくせに随分な台詞だと思わなくもなかったが、彼女の言い分もまた正しいものであり、イヴァンには言い返す言葉がなかった。
 それに彼女に対する愛情は確かに薄れてもいた。結局すんなりと別れを受け入れて、イヴァンはますます訓練に没頭することになった。
 ガラス越しに差し込む西日に、イヴァンは目を細める。もうすぐ夜がやって来る。
 日没の太陽は、イヴァンたちを乗せた四輪駆動車が走行する道路よりも、はるか下の地平線の彼方へと沈もうとしている。
 イヴァンたちを乗せた車が走る道は、ニドヒル独立国の国道326号線。メイシャ連山を縫うように道が走り、ラハーラ連邦国との国境線が山中にあるという特殊な場所だった。
 標高2500メートルの場所にある国道326号線検閲所は、その立地からロード・オブ・ヘブンと呼ばれていた。
 もちろんそれは天に届きそうな程高い場所にある道という意味だが、もう一つ意味がある。
 隣国のラハーラ連邦国では、現在北部と南部で分断された状態で内戦が絶えない。
 ラハーラ連邦国北部ナーワン地区は、宗教上の対立、また現在のラハーラ連邦国の政治体制を批判し、ナーワン地区はラハーラ連邦国から独立すると宣言した。それが三年前だ。
 元々民族紛争の絶えない地区での火種は、瞬く間に大火となって燃え広がった。それに伴いナーワン地区では国民解放軍と名乗る私設武装組織が、ラハーラ連邦国軍と対立し、北部と南部で対立しているのが現状だ。
 血で血を洗うような戦争へと発展した結果、ラハーラ連邦国側から、ニドヒル独立国側への亡命を理由にした密入国者が増加し、火種となる可能性を排除したいニドヒル独立国は、国境線の警備を強化するようになった。
 ラハーラ連邦国と陸地続きとなっている場所は城壁を設け、ニドヒル独立国国境警備隊が巡視している。
 しかし城壁を設けられない箇所があった。
 それがメイシャ連山を通る、国道326号線だった。
 ニドヒル独立国とラハーラ連邦国をまたがる国道326号線は、ラハーラ連邦国の北部ナーワン地区へも直接通じている。そのため、この道を内戦に利用される可能性があった。
 この国道326号線が利用不能となると、直接陸路で互いの国の主要都市内部へ乗り入れることは不可能となる。メイシャ連山が余りにも広がりを見せるためだ。
 よって両国にとって、国道326号線は国境を跨ぐ重要な路線でありながら、ラハーラ連邦国とナーワン地区の行き来にも使用されるという、非常に神経質な場所ともなっていた。
「そりゃ、ロード・オブ・ヘブンだぞ? あの世に一番近い道だぜ」
 ポスティッヒはそう言って、白い歯を見せてにやりと笑った。
 天に近いからロード・オブ・ヘブン。そしてもう一つは戦闘が絶えず、死傷者が多く出るためにそう呼ばれている。これからイヴァンたちが向かう、ニドヒル独立国国境警備隊が取り締まる国道326号線検閲所だった。
 戦争が長期化すると、社会の裏側で流行するものがある。
 それは薬物だ。
 元々ラハーラ連邦国は発展途上国であり、貧しい農村地帯ではケシの花の栽培が盛んだった。どれほど取り締まっても、後を絶たない。産業が盛んなわけでもなく、失業率が高いこの国では、農業が大部分を占めていて、ケシの花の栽培は貧しい農村で生きるための糧となっていた。
 そのためマフィアに搾り取られるだけとわかっていながらも、賃金を得るために選ばざるを得ない、そうした背景もあった。
 そうした情勢不安は国民に不安と疲弊を与え、先の見えない不安から逃れるために、薬物に手を伸ばす者もいる。
 生きることへの諦観、戦禍に巻き込まれる恐怖、仕事を失う絶望、身内を亡くす喪失感。すべての悪夢から解き放ってくれる麻薬に、いけないとわかっていても手を伸ばしてしまう。
 そしてそんな弱者の心理に忍び寄るのが、マフィアの常套手段でもあった。
 現在ラハーラ連邦国では、麻薬汚染が深刻になりつつある。三年も内戦状態にあれば、国民の不安はいつ爆発してもおかしくはない程だ。
 特にナーワン地区で目立つようになってきていた。
 だからこそニドヒル独立国は、ナーワン地区側からの麻薬の流入を防ぐべく、この国道326号線の警戒は特に厳しい警戒に当てていた。
 一説によればラハーラ連邦国軍側から、故意にナーワン地区へ、特に国民解放軍の弱体化を狙って麻薬を広めているという話もあるが、真偽のほどは不明のままだ。
 どちらにせよ、この場所では亡命者や難民を装ってマフィアが流入し、それが発見されると国境警備隊との銃撃戦が数多く発生する。よって死傷者も多く出ることになる。
 それがロード・オブ・ヘブンの別称で呼ばれる原因の一つだ。
 ニドヒル独立国国境警備隊は、国境線上に広く拠点を持ち、その任務にあたる準軍隊組織だ。
 準軍隊組織とは、その国の国軍を除く武装組織、武装集団を指す。警察組織なども準軍隊組織と見なされる。
 国境線上に軍隊を配置した場合、隣接する国との不要な圧力から緊張状態が高まり、戦争に発展しかねないというのが理由で、軍隊ではなく、あくまでも国境を警備するだけの組織であるという、示威のために組織されたのが国境警備隊だ。
 よって任務は国境線の警備が主な任務である。
 しかし現在のラハーラ連邦国は、内戦状態にあること、また薬物汚染の流行などを考えると、当然警戒が高くなる。難民や亡命者のフリをして入り込もうとする輩も後を絶たないからだ。
 イヴァンがこれから向かう場所は、そうした緊張状態に常にさらされている場所だ。
「ロード・オブ・ヘブン、か……」
 そう呟いて窓の外見つめるイヴァンの横顔を、日没の太陽が照らしていた。

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