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07 幻想夜話

 あまりに唐突な変化だったので、慌てて顔を上げると、そこは見覚えのある往来で、先ほど零斗自身が歩いてきた道だった。
「えっ!」
 夜の照明が鮮やかな町並みに、香水と大衆とアルコールの混じった猥雑な匂い。夜毎繰り返される喧騒的な、繁華街の風景がそこにはあった。
「はっ?」
 血の気が引くほど驚いた。そこはもうあの質屋の店の中ではなかったのだから。
『ピピピ!』
「!」
 足元で小鳥が鳴いた。クロガネだった。
「あ、おまえは!」
 クロガネは零斗が店の板の間に上がる時に脱いだ靴の横にいた。そして零斗がクロガネと靴に視線を向けた直後、『靴を忘れちゃだめよ』と警告するようにもう一度鳴いて、漆黒の夜空に溶け込むような黒い翼を広げて飛び立った。
「クロガネ!」
 その小さな鳥の姿は瞬く間に小さくなり、そしてすぐに見失った。
 周囲を見回しても、あの漆喰の壁に暖簾が下がった建物がない。どれもこれも今風のコンクリート構造物だけであり、混沌とした和の建物はどこにも見当たらなかった。
「っ!」
 靴下を履いていたとはいえ、足の裏からアスファルトの硬い感触と冷たい気配にぞっとする。弾かれる様にあわてて靴を履いてから、もう一度零斗は周囲を見回した。
「なんだよ、これは」
 夢だと思いたい。しかし今しがた飛び立った漆黒の小鳥も幻だったといえるのか?
 自分はいったいどうなってしまったのだろうか?
 師匠の音を忘れたいあまり、現実逃避をする妄想を見ていたのだろうか? 一度精神科を受診してみたほうがよさそうだと、零斗は自分に言い聞かせた。
 そもそも、師匠の演奏を忘れられるわけがない。師匠の津軽三味線を聴いて自分も同じ道にすすんだのだから。
 師匠の弾く津軽じょんがら節は、
「あれ……」
 曲がわからないわけがない。今すぐ三味線と撥を渡されれば、即興で弾くことくらいできる。
 楽曲はわかっている。演奏だってできる。それなのに師匠の弾く三味線の調べが思い出せない。
「そんなまさか」
 あれは夢だろう?
 脳裏に師匠の撥を持つユメの姿が蘇る。撥を手にしただけで、まるで師匠の演奏を聞いてきたかのような感想を口にした質屋の女主人は、零斗の現実逃避の末に生まれた幻想なんかではなかったのか?
 零斗は額に手を当てた。
 師匠のことは覚えている。どんな演奏をするのかも、頭ではわかっている。
 それなのに思い出せない。
 音が蘇らないのだ。
 あれほどまでに零斗を苛み、呪縛していた師匠のあの演奏が、自分の中からごっそりと消えている。
「嘘だ……」
 血の気が引くのを感じる。ありえない。そんなことが起こるはずもない。
 音の記憶を質屋に預けるなんて。
 しかし実際に零斗は、自分の記憶からごっそりと師匠の演奏した音が消えているのを自覚せずにはいられなかった。


 パササ、と羽音がしたのでユメは視線を天井へ向けた。漆黒の小鳥のクロガネが、降り立とうとしていたので、ユメはついと手を差し出し、人差し指を伸ばす。
 クロガネはまるで最初からそこに止まるつもりだったというように、ユメの白い指に止まった。
「おかえり、クロガネ」
 ユメは笑みを深くし、楽しそうにクロガネを見つめ、反対側の手の指の腹でクロガネの翼をそっと撫でてすいた。
「ねぇ、クロガネ。人の心は本当に不思議だと思わないかい?」
 ユメは立ち上がり、あの鼈甲の撥を収めたガラス戸へ近付いた。淡い黄色のライトを浴びた鼈甲はきらりと光っていた。
「愛しているから憎くなるの。愛しても愛しても自分の思いが報われない時に、ほんの一瞬のきっかけで、それまで慈しんで愛して大切にしてきたものが、すべてを壊してなくしてしまいたくなるほどに、憎くてたまらなくなるのさ」
 ツッっとガラス戸に指を這わせる。ガラス戸に阻まれてユメの指先は鼈甲の撥に触れそうな程に近付いても、頑ななほどの冷たさをもって拒絶される。
「でもね、それでも本当は心の奥底では愛しているの。愛して欲しいと願いながら、憎むのよ。面白いと思わない? 人の心は不思議だらけ。矛盾したそれも当然のことになる。面白いだろう?」
 口の端を吊り上げてユメは笑った。クロガネは、ユメの指先から離れて飛び立ち、番頭台の上に降り立った。

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