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03 蘇芳

 もうだめだ。
 借金なんて返せねぇ。
 ちくしょう、もう死んでやる!
 適当なバスに飛び乗り、見知らぬ土地にたどり着いた。残金は二百七十円。それがどうした?もう俺は死ぬんだ。金のことなんてどうでもいい。
 荷物は百円均一で買った洗たくロープ。
 安いもんだ。たったこれだけで楽になれるんだ。全部から開放されて、全部終わる。
 俺の人生ごとすべて。
 山中へと向けてやみくもに歩いた。腹が減っていたが、不思議と疲れることはなかった。
 あぁ、懐かしいな。俺の田舎もこんな山の中だ。
 自然と涙が出てきた。
 ごめんな、母さん、父さん。俺が馬鹿だったよ。
 俺は心の中で何度も謝りながら、歩調を早めた。
 杉の森はいつしか檜や檜葉となり、山桜が混じってもみじや楓も混じっていた。
 桜か……景気がいいや。
 染井吉野程の豪華さはないが、色の濃いこの山桜も捨てたものじゃない。
 ははは、今になって気づいたよ。都会は確かに何でもあるが、田舎だって捨てたものじゃない。
 それなのに何で俺は見下してしまったんだろう?
 俺は一本の山桜の木の下に止まった。震える手で袋から洗たくロープを取り出し、枝にロープを引っかけた。
 情けないことに手が震えてうまく結び目が作れない。怖くて怖くて涙が止まらない。
 ここへ来るまでの怒りはなりを潜め、今は自分がひどく情けなくて、そして死が怖かった。けれども引き返そうとも思わなかった。
 生きていたってどうせ何の取り柄もない。
 俺には何もないのだから。
 震える手でなんとか作ったロープの強度を確かめる。何度も引っ張り、途中で解けないことを確認する。
 ごくりと唾を飲んだ。
 ゆっくりとロープを首にかける。心臓が痛いくらいに鼓動を早める。手と言わず、今は全身が震えている。冷汗が背筋を伝う。まだ首つりをしていないのに、すでに呼吸が苦しい。
「やめときなさいな」
 耳に心地好い滑らかな低音が飛び込む。
「!」
 突然のことに驚きすぎて声も出ない!
 ぎりりとロープを握ったまま振り替えると、日本人形を抱えた、着物姿の若い男がこちらをじっと見つめていた。右目だけの片眼鏡が、陽光を弾いてキラリと光る。
「そんな安物の紐で、首なんて括れないよ。仮に括れても、死に様はきれいなものじゃぁないんだよ?」
「あ……」
 男はゆっくりと近づいてくる。枯葉や小枝を踏みしめる音が迫る。
「聞いた話しだけどね? 目玉は圧迫されて飛び出して、視神経でぶらりとゆれて、舌は突き出して涎を垂らし放題。死後硬直だかなんだかで、脱糞はする、失禁はするで、そりゃあひどい臭さだそうだよ」
「うっ……」
 自分のその様子を想像したら、ひどくこの死に方に嫌悪した。けれど手首を切ったり腹を包丁で刺すような痛い死に方はしたくなかった。
「更に言うと店先で自殺されちゃ、迷惑だよ」
「えっ?」
 店?
 こんな山の中に?
 男が指さす方向には、大きな花畑と二階建ての建物がある。どうして気づかなかったんだろう?
 いや、そもそもどうしてこんなところに店がある?
 俺は闇雲に山の中へと歩いてきたはずなのに、どうしてそんな山中に店なんてあるんだ?
 それに……
 その人形はなんなんだよ?
 俺の驚愕と困惑の視線を受けて、初めて男はくすりと笑った。同じ男であるはずの俺が、どきりとするような魔的な雰囲気を放つ微笑だった。
「人形工房と店を経営している。まぁ、お客は滅多に来ないけれど。僕は西園寺蓮也。人形工房・花車堂の主人であり、人形作家であり人形師でもある」
 それでその日本人形か。しかしいくら人形師でも、外にまで持ち出すというのはなんか、その……
「あ……俺は……」
 正直、自己紹介なんてしたくない。これから死のうとしていた者ですって? 言えるかよ。
 俺の内心の葛藤を読み取って、この西園寺と名乗った男はにこりと微笑んだ。
「いいよ、聞かないでおこう。自殺しようとここまで来るんだもの。人と関わりたくないんでしょ? でも少なくともこの辺りでの自殺はやめてくれるかな?」
 少なくとも毒気を抜かれていた。生きる気力もないけれど、少なくともここでは死ねないな。
 俺は小さくうなずいた。
「そのロープを外して。枝が痛む」
 俺の命より、そっちの心配をしていたのか?
 そう言ってやりたかったが、見ず知らずの男の命より、自分の住むところの山桜の方が確かに大切だろう。
「ついておいで。お茶を淹れてあげるよ」
 茶なんて飲みたくない。けれどもうすべてがどうでもよくて、投げやりな気分になっていた。
 振り返ることなく西園寺は歩き出した。俺は山桜のロープを外し、形容しがたい複雑な心情の面持ちのまま、ロープを握りしめて若き人形師の背中を追った。

  ほぅら、やっぱり来たでしょう?

「え?」
 甲高い子供の声がした。思わず見回すが、当然子供なんていやしない。
 突風が吹き荒れて、山桜が乱舞する。
 聞き間違い……だよな?
 西園寺はまるで着いてくるのが当然と思っているのか、一度も振り返らない。
 俺は気味が悪くなって、走ってその後を追った。

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#現代 #シリアス #ミステリー #オカルト #ホラー


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