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10 ロード・オブ・ヘブン

本編読了後を想定した番外編です。ここから読む場合は本編のネタバレを含みます。

01 魔の手はそっと忍び寄る


 頬をざらりとした舌で舐められる感触がして、イヴァン・デーレーは目を覚ました。薄茶色の瞳に刺すような白い日差しが飛び込んで、思わず小さな痛みに怯んで再び目を閉じる。けれども寝ぼけた頭にも、今イヴァンの頬を舐めた犯人が誰なのかすぐにわかった。
「リー…ヴィ……」
 天井の低いベッドの上、首だけを曲げて横を見た瞬間、漆黒の猫は『もう起きたら?』と促すように、小さな前足でイヴァンの頬をぺちぺちと叩いた。
「……なんで……ここにいるんだよ」
 寝起き直後のかすれた低い声で呟き、反対側に体を向けた。するとリーヴィは、イヴァンの後頭部の横に体を寄せて丸くなる。
「……」
 イヴァンは小さな溜め息を漏らした。
 ここは国道326号線国境検閲所、その隊員達に設けられた宿舎だ。常時二個小隊、六十人余りの隊員がこの場所で任務にあたるために暮らしていた。
 標高2500メートルを超えるメイシャ連山の中にある国境は、隣国ラハーラ連邦国からの難民や密入国者、またはそれらを装う薬物売人のマフィアが流れ込むために、銃撃戦がざらにある危険な場所だ。
 そのため標高が高いこと、そして銃撃戦による死傷者を多く出すために、ロード・オブ・ヘブンの異名で呼ばれることもある国境検閲所だった。
 イヴァンが配属されたのはほんの一週間前。着任地は当初の予定では別の場所だったのだが、このロード・オブ・ヘブンで欠員が出たため、急遽こちらへの着任となった。
 更に度重なる不幸は続き、着任したその日には夜勤、相棒となる男は食中毒で入れ違いに入院、代理の相棒は上司という有様だ。
 追い打ちをかけたのがその代理の相棒である上司である。普段から黒猫相手に『リーヴィたん、かわいい』だの『俺の嫁には手を出すなよ?』という台詞を吐く。見た目は頼りない金髪優男で、ちょっと頭が残念気味な上司かよと、一度はイヴァンを失意のどん底に叩き落としてくれたが、見た目通りのアホではなかった。
 その証拠に、初任務となったその日、早速密入国をしようとしていたマフィアと対峙することとなったイヴァンは、彼の隠された二面性を様々と見せつけられた。
 冷静な判断力とそれを証拠付ける確かな行動、そしてマフィアに対する深い憎悪。
 決して見た目だけで判断できないと知ったのは、そう前のことではない。
 しかしそれは持続しない。
 本人が敢えてそうしているのか、それが自分らしくしている結果なのか、普段の上司、ライヒアルト・エーレ小隊長は、のらりくらりとしていて相変わらず、掴みどころのない性格をしていた。
 そんなエーレの飼い猫にして、『俺の通い妻』と本人が豪語するリーヴィが、なぜかここにいる……
「!?」
 寝ぼけた思考がはっきりしてきて、イヴァンはもう一度体の向きを変えた。
「……」
 もふっ、と黒い体毛がイヴァンの顔いっぱいを埋め尽くした。
「だからなんでここにいるんだよ……」
 エーレはどこにいくにでも、この黒猫を連れている。たまにリーヴィは隊員たちの憩いの場でもある、コミュニケーションルームにいることもあるが、そんな時は隊員たちのマスコットとしてもてはやされている。しかし同じ宿舎にいるにしても、この常時六人が向い合せで寝るだけの部屋に入り込むことはない。
 天井に頭をぶつけないようにして上半身をベッドから乗りだし、入り口を見るとドアが少し開いていた。その隙間からやってきたのだろう。
「誰だよ、開けっ放しにした奴は……」
 文句を言ったところで名乗り出る者がいるわけもなく、イヴァンは諦めてベッドから降りた。
 ちなみにイヴァンのベッドは丁度真ん中だ。一度降りた後、毛布を足元の位置に寄せる。するとリーヴィはそれまでイヴァンが寝ていた場所の温もりを求めて移動し、ベッドの端、つまり毛布を寄せた位置に移動した。
「あーあ……毛だらけ……」
 何せ黒猫なので、白いシーツの上には黒い毛が残された。仕方ないので放っておき、荷物を収納できるスペースともなっているベッドの下から、迷彩服を取り出して着替え始めた。
 時計を見ると時刻は朝八時少し前。少し寝過ぎだが、今日は非番であり訓練もない。訓練はないが標高の高い山の中でやることがない。そのため軽いトレーニングをするという者が多い。イヴァンもそのつもりだった。
 イヴァンが初めて迎えた非番の日は、前夜の騒動からの疲れが溜まったのか、はたまた極限にまで追い詰められた恐怖と緊張から解放されたからか、夜勤を終えて部屋に戻るなりすぐにベッドにもぐりこんだ。そして正午を過ぎても眠ってしまい、挙句午後からは施設を見て回ること、初対面の隊員たちに挨拶をすること、そして雑談に費やして初めての非番は終わってしまった。
 手早く着替えると、イヴァンはベッドの上で丸くなっている黒猫を抱き上げた。抗議するように短く鳴いたが、このまま放っておくわけにもいかない。
「小隊長のところへ帰れよ、リーヴィ……」
 普段はエーレの行く先々にリーヴィはいる。今日、宿舎の中をうろついているということは、エーレも今日は非番なのだろう。
 しかしイヴァンたち普通隊員とは違って、エーレは小隊長。個人の部屋を与えられている。非番をやり過ごすためにコミュニケーションルームにいる必要はない。しかしながら標高2500メートルもある検閲所では、外部の娯楽施設などもなく、三か月に一度しか下山しての非番はやってこない。
 そのため暇つぶしをするなら上官だろうと部下だろうと、平等にコミュニケーションルームでカードゲームやテレビを見て過ごすことになる。
 おそらく今頃、エーレは「リーヴィ? どこに行ったんだ? 誰か俺の通い妻を見なかったか?」と血相を変えているに違いない。
 それでいけば今の状況を目撃されると、間違いなくイヴァンが誘拐犯扱いされるのだが、冤罪もいいところだ。実際には勝手にリーヴィがやってきたのだから。
 狭苦しい寝室を出て、しっかりとドアを閉める。それを確認してからイヴァンはコミュニケーションルームを目指して歩き出した。
 今日はイヴァンたち第八小隊の中の第一分隊が非番となっている。他の分隊は通常任務についているが、夜勤明けの分隊の姿も確認できるため、施設内はそう閑散としたものではなく、遠くから笑い声などが聞こえていた。

09><11
※ 09までは本編、10からは番外編です

#小説 #オリジナル小説 #アクション #コメディー #準軍隊組織 #国境警備隊

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