09 蘇芳
俺は来たときよりも気が動転していた。いったいどんな道のりを走ったのか、まったくわからない。
マンションの地下駐車場に西園寺はいなかった。都合がいい、今のうちに逃げよう。
だが俺のマンションの入口前に、管理人と見知らぬ男が二人いた。
今度は何だ?
「あぁ、ちょうどよかった。捜していたんですよ」
親しみやすい口調とは異なる、厳しい視線。
何だ? 何なんだ?
「どちら様で?」
管理人はともかく、この二人のおっさんたちには面識がない。すると二人はスーツのポケットから、警察手帳を取り出して俺に見せつけた。
「新宿署の向井とこっちは遠藤と言います。鈴木亜由美さんをご存じですよね?」
知っていることを前提とした、確認のための問いかけ。
「鈴木亜由美?」
誰だ? 鈴木……鈴木……あっ!
「アユのこと?」
確かあいつはそういう本名だったはず。
「そうそう、その子。実は先日、遺体で発見されましてね。あなたを疑っているわけではないんですが、通話記録の最後があなたと知り、そこでお伺いした次第です。ちょっと署まで来ていただけませんかねぇ?」
向井と名乗った刑事は、すでに犯人を見る目付きだった。
俺がアユを殺すだと? 馬鹿な……あ、まさか……
アユとの最後の電話は、不気味な絶叫だった。あの時殺されたのか?
心臓が高鳴る。
待ってくれよ……
まさか……まさか……
あぁ、俺はあのとき何と言った?
確か二度と俺の前に現れるなと……
だから蘇芳は殺したのか?
もう二度と俺の目の前に現れないようにしてやったのか?
「……俺が殺したわけじゃねぇ。証拠がねぇだろ!」
俺はドアの指紋センサーロックを解除した。遠藤という刑事が、俺の肩に手をかけたが、俺はそれを振りほどいた。
「証拠持って出直せよ! 俺じゃねぇ!」
俺は急いでドアの中に体を滑り込ませた。捜査令状がなければ、あいつらは中に入れないし、逮捕状がなければ、俺を捕まえることなんてできない。
今のうちに逃げなくては!
金とそれから……
背後で刑事がドアを叩いている。
だがリビングから、テレビの音がする……
俺の心臓は高鳴っていた。あまりの高ぶりに、口から心臓が飛び出してくるのではないかと思う程だ。
一歩、一歩と近づくたびに俺は緊張を深めていた。
「おかえり」
リビングのソファーにゆったりと座って、テレビを見ていたのは片眼鏡の人形師だった!
俺が来ることを知っているかのように、のんびりとテレビを見ていた。
「て、てめぇ……何無断で人の家に入ってるんだ!」
そもそもどうやって中に入った? ここは指紋センサー付きのオートロックなんだぜ? だからあの刑事たちは、管理人にここまで連れてきてもらったが、部屋には入れずにあそこで待っていたというのに。
「お互い様だろう? 君は無断で僕の敷地に入ったじゃないか」
どうやってここまで入り込んだのか言わないまま、視線はテレビに向けられていた。西園寺は薄く笑う。そしてテレビを指さして俺を見た。
「見てごらんよ」
テレビはニュースを伝えている。
『……○○○銀行から、十億円が紛失していることが判明しました』
十億円……
その金額を耳にした瞬間、心臓が鷲掴みにされたかのような、そんな痛みが走った。
部屋にはまだあの十億円の山があった。人形師は薄く笑いながら、ソファーから立ち上がる。そして札束の山に近づき、そのうちの一束を手にする。
「SE12*****…………知ってる? 発行されたばかりの札束のこの製造番号を、銀行は控えているんだよ。世間に出回れば立ち所に知れてしまうんだけどねぇ」
西園寺はにやりと笑った。それはどこか意地悪で冷淡な、恐怖に火をつけるかのような禍々しい微笑みだった。
血の気が引いて、目まいが襲う。
「嘘だろ……」
頭ががんがんして気持ちが悪い。
蘇芳は……銀行から十億盗んだのか?
「だって……俺は……盗めなんて頼んでない……」
だがどんな方法で金を手に入れるのか、口にしてもいなかった。
俺はただ十億欲しいと願っただけ。それがどんな方法で手に入るのか、まったく考えていなかった。
「言ったよねぇ? 願いは二つまでだって。それが叶ったら謝礼に来てってさ?」
人形師の腕の中には蘇芳がいた。
あぁ、どうすりゃいい?
俺はアユを殺してくれって、ましてや会社の従業員を皆殺しにしてくれなんて頼んでない!
十億円盗んでくれなんて……そんな……そんなこと……
「だって……あんたのところに行く方法なんて……」
本当に覚えていない。あのときはただ死にたかった。惨めな気持ちで絶望に浸り、どこか自暴自棄になり、どのバスに乗ったのか、どこからどう歩いてあの山の中にたどり着いたのか、まったく覚えていなかった。
帰るときだって不用意にもらした一言で、蘇芳にあっさりと東京に戻されたのだ。行き道も帰り道もわからなかった。
「君がその気になればたどり着いていたさ。だって花車堂はどこにでもあって、どこにもない。必然とした者の前にしか現れないのだから。しかし君は一度だって返しに行こうとは思わなかった。それどころか、蘇芳に何度も何度も願いを口にした」
人形師は笑う。
冷ややかな瞳で見つめながら。
「違う!だって俺は……殺してくれなんて言ってない……そいつが勝手に」
俺はいやいやというように頭を振った。
「見苦しいよ。聞きたくないね。僕は確かに言ったはずだ。願いは二つまでだと。だが君は際限なく蘇芳に頼んだじゃない。さて御代を頂戴しようか?」
西園寺は片手で蘇芳を持ち上げた。丁度放り投げるかのような仕種だった。
だが伊豆蔵人形は放り投げられることはなく、空中でぴたりと静止した。
「ひぃっ!」
俺の全身に寒気が走る。蘇芳は目を細めて笑ったままだ。
ねぇ、僕のお友だちになってよ?
「うわぁぁ!」
俺は腰を抜かしてへたり込んだ。伊豆蔵人形はすいっと空中を滑り、俺の目の前へとやって来る!
今度は君が僕の願いを叶えてよ!
「やめろ、来るなぁぁ!」
腰砕けの状態で、それでも俺は逃れようと這った。
人形師が嗤う。
伊豆蔵人形は俺に迫る!
さぁ、僕たちの仲間になって!
「嫌だぁぁ!」
人形師が嗤う!
片眼鏡が照明を反射して光る!
さぁ!
「わあぁぁっ!」
伊豆蔵人形が迫る!
「っ!」
静寂が空間を支配する。
空中を滑空していた蘇芳が、ぴたりと静止し、ごとんと音を立てて床に転がった。
これまで勝手に動いていたのか嘘のようだ。
それまで笑いながら成り行きを見守っていた片眼鏡の人形師が、ゆっくりと動いた。
「あぁ、やっぱり蘇芳は無茶な注文をしたね」
どこか楽しそうに、それでいて苦笑するように微笑み、西園寺は蘇芳を床から拾い、優しく抱き上げた。
そして……
「これであなたは永遠にこの子たちの友達だね?」
床に転がった新たな伊豆蔵人形が一体。
「だから言ったのに。絶対に約束は守ってねってさ?」
人形師は新たな人形を抱き抱えた。片手には蘇芳。そしてもう一つは……
「そうだ、僕はあなたの名前を聞いてなかったね? じゃあ、新しい名前をあげなきゃ。そうだ、糸繰ってのはどう?」
そんなばかな……
助けてくれよ……
「さぁ、今日は後の雛祭り。菊子のためにみんなで祝おうね? 新たな仲間も増えたことだし」
人形師はうれしそうに微笑んだ。
俺は……俺は……
「蘇芳、糸繰、帰ろう。菊子の待つ花車堂へ」
嫌だ……嫌だぁぁぁぁ!
なぜ俺が人形になるんだ!
助けてくれ……助けてくれぇぇぇぇ!
しかし俺の悲鳴と届くことがなかった。
永遠に。
そして二体の人形を抱いた人形師は、こつ然と姿をかき消した。
蘇芳―完―
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