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06 ロード・オブ・ヘブン

 イヴァンは大きなため息をついた。というより、溜め息をつくしかない状況なのだ。真横にいる上官に、着任早々文句を言えるはずもない。ささやかな抗議は溜息でしか表せないのだから。
「ボンベ持ってきただろ? 巡回エリアに着く前に使っておきなよ」
 しかしくだんの上官であるエーレは、初勤務となる部下の溜め息の理由を、軽い高山病だとずっと思っているのだろう。それは間違っていない。確かに間違えてはいなかったが、正確でもなかった。
「……はい」
 無難に頷き、イヴァンは視線を下へ向けた。そこにはイヴァンの膝の上で丸くなっている黒猫がいた。当然連れてきたのは、隣に座るアホな上官だ。
 夜間の警備は基本的には四人一組で四輪駆動車に乗り、担当地区の巡回に当たる。車が入り込めない箇所は、歩いて見回ることになる。今回はエーレが代理バディということや、初任務ということから、イヴァンと二人きりになってしまったようだ。
 深夜のメイシャ連山は当然視界が悪い。ただ、このメイシャ連山は、森林面積は然程高くない。標高が高くなるほどに岩場がむき出しとなり、ロード・オブ・ヘブン付近もそうした岩場が目立つ。
 ただ森林が全くないわけではない。
 わずかな森林地帯は絶好の隠れ蓑になる。そのため一番銃撃戦が発生するのも、そうした森林地帯だ。
 そんな危険な場所へ巡回するために向かう相手が、よりによって優男風なエーレだ。しかもなぜか危険な巡回に黒猫のリーヴィを連れてきた。いっそ殴ってやりたいなと真剣に思ったが、初任地・初任務・初夜勤という初物揃いな日に、暴力事件を起こして懲戒免職では割に合わない。
 黒猫のリーヴィは運転中のエーレが構ってくれないからか、なぜかイヴァンの膝の上で丸くなっていた。
 猫を連れてくることはないだろう……そう思ったのだが、当然のようにエーレはリーヴィを連れてきた。案外ここではこれが普通と認知されているのだろうかと思って、無駄な抵抗は諦めて一緒に車に乗り込んだ。
 巡回ルートを知らないイヴァンのために、運転はエーレがしている。エーレが一通りの巡回コースを運転していた。
 やはりこのロード・オブ・ヘブンは、地上との行き来が容易ではない。そのためか、急病で欠員が出ると、上官であろうと当然のように巡回任務にあたるようだ。
 そうして他の隊員と苦楽を共にしているからか、妙に親しみを持たれているような気がする。
 もう一度、今度は小さくため息をついてから、傍らに置いた携帯用酸素ボンベを持ち上げて、吸入口を押し当てて、酸素を深く吸いこんだ。
「昔さ」
「はい?」
 唐突にエーレが話しかけてきた。運転をするエーレの横顔を見上げる。当然車内は暗く、その横顔がはっきりと見えるわけではない。
 しかし微かな笑みを浮かべているのは見てとれた。
「昔、このあたりにも村があったんだよ。ロード・オブ・ヘブンより下だけど」
「!」
 現在、ニドヒル独立国内、メイシャ連山内の標高2000メートルを超える場所に民家はない。
 だが過去にはあった。そう昔でもない。
 確か十年程度前にはあった。家畜の放牧を仕事とする農村がいくつかあった。ただ生活の不便さを理由に、徐々に麓へ移り住む住民が増え、先祖の代から続けられてきた放牧という仕事を受け継がれることは減っていった。
 結果、農村からの人口流出は抑えることができず、廃村となるのは目に見えていた。
「俺はそこの出身なんだ。だから肺活量が人よりあるし、高地順応は生まれながらにしてあったから、みんなが頭を痛がって吐き気がするというのが理解できなかった。メイシャ連山より高い他の国の山を登ったこともないし、高山病ってどんな感じなのか、今もわからないんだよね、俺」
 単純に、軽い高山病で苦しんでいるイヴァンに対して、気遣う話をしようと思って切り出したことなのだろうと推測する。
 しかしイヴァンは知っていた。
 このあたりの農村は、人口流出による廃村が大部分だったが、もう一つ知られた原因がある。
 それはイヴァンたち国境警備隊が最も警戒する相手、ラハーラ連邦国側からやってくるマフィアだ。
 内戦が勃発したのは三年前だが、マフィアが横行していたのは何年も前からだ。
 ニドヒル独立国とラハーラ連邦国の入国を可能にする方法はいくつかある。しかし空路での薬物の持ち込みは厳重だ。海路も同様にして検閲が厳しい。そして陸路となると、ニドヒル独立国首都や中心部へ向かうためには、どうしてもメイシャ連山を越えなくてはならない。
 そしてメイシャ連山を越えてくるマフィアと、国境警備隊との交戦は時に熾烈を極め、死傷者を出すことも珍しいことではない。
 そうした銃撃戦に巻き込まれ、消失した農村もあった。元々廃村間近という程人口が減っていた場所に、マフィアが麻薬取引の場所として目を付けたのだ。それが国境警備隊に知られ、銃撃戦となり、知らずに巻き込まれた住民が死傷したということもある。
 エーレの年齢から考えれば、それは少年期の頃の話になるのだろう。
「なんたって子供の頃からヤギを追いかけ回していたんだぜ? じいちゃんの仕事手伝ってさ。ヤギってすごいんだぜ。岩場だってひょいひょい跳ねる」
 懐かしそうに目を細めるエーレだったが、不意に寂しそうな色を浮かべた。
「確かこのあたりの農村は……」
「ん……知っているのか……まぁ、ね? 親父はじいちゃんの仕事は継がず、麓で生活していたし、母親とはその前に離婚していたから、そう言う意味で両親は無事だったよ。今も二人とも生きているし。俺はじいちゃんっ子だったというのもあるんだけど、どうしてもあの村を出たくなかったんだ。だからじいちゃんと暮らしていた。知ってのとおり、あの村はもうない」
 詳しく語ろうとしないということは、きっとイヴァンの考えている通りなのだろう。
 あの村はマフィアと国境警備隊との銃撃戦に巻き込まれ、残っていた住民が死傷し、そして生き残ったわずかな住民はみな麓へ降りて散り散りとなった。
 エーレはそのうちの一人だったのだろう。
 だからエーレは国境警備隊という仕事を選んだのだろうか?
「悔しいんだよなぁ。いくら警察が取り締まっても、いくら国境警備隊が取り締まっても、マフィアって連中は撲滅しない。誰かに必要とされているわけでもないくせに、絶対に消え失せたりはしない」
 そう気負った口調ではなかった。しかしその眼差しがそれを裏切っていた。
 前方のライトに照らされた道を睨む瞳には、憎悪に近い怒りが浮かんでいた。エーレの二面性を見せつけられ、イヴァンはぞっとする。
 普段道化の仮面を被っているが、その仮面を外した時、実はとんでもない化け物だったりするのではないのか?
 笑い者の道化のフリをしながら、本当は周囲をじっと観察して、冷静に分析しているのではないのか?
 携帯用の酸素ボンベを持つ手に力が入った。
 確かにエーレは見ている。細かいところまで冷静に。
「………」
 エーレに対する第一印象から、自分はとんでもない認識違いをするところだったのかもしれない。
 人食い虎を猫だと思っていたのかもしれないと……
「ん?」
「!」
 丁度ハンドルを左に切った直後の出来事だった。エーレが突然ブレーキを踏んだのだ。そしてすぐに車のライトを消す。
「小隊長……?」
「今、向こうに明かり見えなかったか?」
 エーレは視線を真っ直ぐ前に向けた。そしてじっと暗闇を睨みつける。
「え……あ、すみません……自分は見ていません」
 山中に明かりがある。それはつまり人間の存在を表す。そして夜間、このロード・オブ・ヘブンを歩く人間は密入国を目論む人間しか出歩かない。
 イヴァンの心臓にギュッと痛みに似たものを感じた。
 着任初日、初勤務は夜勤。何もかも初めて尽くしの今日、初の敵に遭遇するのだろうか?
「降りるぞ。デーナー、おまえは9:00方向へ向かえ。あまり深入りせず、その後は12:00時方向へ。何事もなければ車へ帰還。俺は3:00時方向から12:00時方向を目指す。俺と鉢合わせても声を出すなよ? 通信はいつでもできるようにしておけ」
「了解です」
「よし」
 降りようとして、膝でのんきに眠るリーヴィを見た。思わず舌打ちをしそうになりながら、一度抱き上げたままで車の外に出た。助手席に猫を乗せて、音をたてないようにドアを閉める。エーレはすでに車を離れて歩き出していた。
 イヴァンも言われたように指示された方向に歩き出した。途中、通信機がいつでも使えるようになっているか確認する。
 エーレが最初に見たかもしれないと思ったのは運転中。つまり前方だ。こちらが気付いたとなれば、向こうも気付いている。暗闇での明かりは不便な足元を照らすが、同時に所在を明らかにする。
 フラッシュライトは当然使えない。見上げると、細い木々の切れ間から頼りない月明かりがこぼれていた。
 イヴァンは指示された方向へ歩き出す。肩にかけたスリングを滑らせ、アサルトライフルを前方に構える姿勢を取る。安全装置を解除しグリップを握り、引き金に指をかけながら一歩一歩慎重に歩き出す。
「………」
 虫の音が止んだ。小さな生き物でさえ、自分のテリトリーに敵が侵入すれば、息をひそめて目を凝らすのだ。

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