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09 運命の女

 セシリア・アネーキスは地上都市ヒミンビョルグ市にある、グラフヴェルズ製薬会社にいた。グラフヴェルズ製薬会社は四都市の病院や研究所などに、精製された薬剤を提供している大手企業でもある。新薬の開発にも積極的であり、研究所施設も数多く所有している。最近では空中都市にも進出して、新たな支局を増設するらしいという噂が、末端の社員の耳にも届くようになってきていた。
 このヒミンビョルグ市にある本社にも一部、研究開発棟が存在している。セシリアが出てきた部屋も、その研究室の一つだった。
 今廊下を歩く彼女を見て、地下都市エイキンでトラブルシューターのセシルと重ねて見る者はいないだろう。
 シンプルな黒のスーツスカートにグレイのワイシャツ。白衣を着て、首からは社員証が下げられている。
 何よりも腰に届く長い黒髪。エイキンでは地毛のショートボブの金髪で過ごしているが、地上にいる間はこの黒のウィッグをつけ、素顔を晒していた。
 だからこそエイキンではサングラスを欠かさない。
 エイキンでは地毛の金髪のショートボブと、素顔を隠すサングラス。
 グラフヴェルズ社では地毛を覆う黒髪のロングのウィッグと、素顔のままの顔立ち。
 女は化粧と髪型一つで印象が変わる。誰もこの二つの顔が、同一人物のものだと簡単には突き止められないだろう。
 颯爽とヒールを鳴らして歩くセシリアは、丁度研究室棟から出たところだった。
「セシリア」
 呼び止められて振り返る。同じ研究室の同僚だ。ダリウス・ターンブル、二十六歳独身。背が高くスポーツで鍛えたバランスのいい体躯。色の濃い茶髪に爽やかな風貌。仕事は真面目で、彼を狙っている女性は多い。まるで死肉に群がるハイエナのように、ダリウスを射止めようとしている女は吐いて捨てる程にいる。それをまたダリウス自身が心得てもいた。
 甘いマスクで微笑みかけてくる。自分に絶対的な自信がある誇りを感じさせた。
 けれどもセシリアは素っ気なく見つめた。誰もが狙う獲物だからといって、セシリアまで狙っているわけではない。むしろセシリアには最も興味のない男だった。
「何かありましたか?」
 今日は残業の予定はない。しかし研究の状況が変われば泊まり込みになることもたまにはある。勘弁して欲しいなぁと思いつつ問いかけると、ダリウスは首を横に振った。
「いや、そうじゃない。今夜、君の予定は空いているかな?」
 その台詞をいったい何度他の女にも言ってきたのか。次に来る台詞を予測し、自分が振られるとは予測もしていないのだろう。ダリウスは甘ったるい微笑みを浮かべていた。
「空いてはいますよ。ただ体調が悪いので今日は帰宅したら早く休もうかと」
 セシリアはダリウスに負けじと微笑みながら、きっぱりと言い放った。
 同じ研究棟に配属になって約半年。仕事ぶりは真面目で丁寧だが、彼の流した浮名は数知れない。次から次へと女性を変えて、とうとう今度は自分にきたようだ。
 夜の街で出会って、一晩限りの相手として遊ぶならそれもいいだろう。問題なのは同じ職場であることだ。
 仕事は真面目でも、下半身が不真面目ならば、いつか女がらみで揉め事を起こす。公私の区別のつかない関係は望まない。それに彼はセシリアの好みではなかった。
 更に言うと、百戦錬磨を鼻にかけ、女性なら誰でも口説けると自信過剰なところも好きではない。
 だから笑顔で断った。
 予定は空いている。けれどもあなたに付き合いたいとは思わない。まさか額面通りに体調不良と受け取りはしないだろう。今日一日、普通に勤務をこなしてきたのだから。
「体調? それは大変だ。じゃぁ、病院へ送ろうか?」
 諦めが悪いのか、それとも本当に心配しているのか? その表情から察するには明らかに前者のようだ。引きつりそうな頬に力を込めて、なんとか笑顔を固定する。
「浮遊車ならありますよ。最近新しいものに買い替えましたの。自動操縦機能もありますから、目的地のデータ入力を済ませておけば、寝込んでいても自宅まで送ってくれますわ」
 いい加減、避けているのに気付けと思いながら笑顔で言うと、つけ入る口実を見失ったダリウスは、曖昧な笑みを浮かべた。
「まいったな。僕は君に嫌われているのだろうか?」
 そうよ、気付かなかったの? そう言ってやればすかっとするのだが、そうはいかないのがしがらみだ。こっちの仕事は個人だけでは成立しない。
「そんなことありませんよ。この研究棟には欠かせない同僚だと思っています」
 つまるところ、仕事が関係していなければ関わらない相手ということなのだが、自分が口説き落とせない相手に燃える性格なのか、ダリウスはセシリアの遠回しな拒絶に気付かないふりをした。
「そう、ありがとう」
 そう言いながら、さりげなくセシリアの隣に並んで腰に手を回してきた。
 その手を冷やかに見下ろして、セシリアは口の中で『この野郎』と呟く。俯いていたので長い黒髪のウィッグに隠れ、その表情はダリウスには見えなかったようだ。
「ところでセシリア。君の研究しているA-225試薬だけど、どうしてまだ人に対する臨床実験の申請をしないんだい? 動物実験での結果もよかったんだろう?」
「えぇ。でも研究チーム全員が結果に納得していないので。それに改良の余地はありそうですし、期日に関してもまだ余裕があります。それから」
 セシリアは自分の腰に回された手を見た。こんなところを他の誰かに見られたら、間違いなくダリウスの次のお相手は、セシリアなのだと誤解されそうだった。
 どうにもこの男には、一度懲りるということを覚え込ませたほうがいいらしい。
 ダリウスの手を掴み自らが素早くダリウスの背後へ回り込んで腕を捻り上げた。その上で壁に押し付ける。
「昔から護身術習っていますの。どうかしら?」
「す、すごいね。これなら大丈夫そうだ」
 引きつった笑みと上ずった声を聴いて、セシリアはニコリと微笑んで手を放した。
「ではまた来週。ごきげんよう」
 丁度開いたエレベーターに素早く身を滑り込ませて、目的とする階層のボタンを押した。
「はぁ……」
 壁に背を預け、目頭を押した。不意に目元に小さな痛みを覚えて、先々週の出来事を思い出す。傷はようやく癒えたけれど、まだ微かな痛みが残る。腫れは冷やしてなんとかできたが、青くなった箇所は分厚くコンシーラを塗って、更にファンデーションで覆い隠した。おかげでしばらく厚化粧だった。
 二週間前の週末、地下都市エイキンでロニーというマフィアの男を、成り行き上で助けてしまった。ゲイの男を差別する気はないが、見た目とはかなりギャップがある男だなぁと思う。ダリウスとは違った意味で、女を取っ替え引っ替えにしては遊んでいそうな雰囲気だったけれど、話してみればそういうタイプではないようだった。
 どちらのマフィアに所属しているのかは聞かなかったが、口は悪いし二言目にはぶっ殺すと野蛮だが、あれでいて根は素直な男だと思う。女嫌いだと言ってはいるが、あれは女が嫌いだと強く思い込んでいるようだとセシリアは感じていた。
「二週間じゃ収まらないかなぁ……」
 先週はエイキンへ潜るのを止めた。おかげで先週末は暇を持て余し、自宅で仕事の続きをしてみる程だった。恋人の一人でもいれば話は別だろうが、少なくとも今のセシリアは自分を縛る存在など欲しくはなかった。ダリウスなどもっての外だ。
 エイキンでの仕事も、ヒミンビョルグでの仕事も、どちらもやりがいがある。
 それにセシリアにはやらなければならないことがある。そのためには自分を縛る者は足かせでしかなかった。
「もう少し様子を見ようかなぁ……でも現状確認もしておくべきかしらね」
 油断は禁物とはいえ、エイキンが物騒なのはいつものこと。その程度の見極めもできなければ、あの地下都市の魔窟へは足を踏み入れる資格などない。
 一先ず現状を把握しておく必要があるとセシリアは思い、久しぶりにエイキンへ潜入してみようと思った。

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#小説 #オリジナル小説 #アクション #バイオレンス

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