08 蘇芳
盛夏の青空は一陣の風のように通りすぎ、そして五節句・重陽の日を迎えた花車堂の主は、十五人揃の雛段を飾っていた。
一見すると季節外れの行為だが、江戸時代初期の頃には、九月九日を後の雛といい、三月三日以外にも雛祭りを行っていた風習があった。
また三月三日を桃の節句というように、九月九日は菊の節句という。
飾り付けを終えた西園寺は、甘酒を用意してから、菊子を雛段の前に抱いてきた。
「今日は菊子の日だね」
正座した膝の上に菊子を乗せて、盃に注いだ甘酒を味わいながら、片眼鏡の人形師は自身の作品を眺める。
蓮也、蓮也、この着物素敵だわ。ありがとう。
いつもの白地に菊の柄ではない、淡い秋桜色に白菊の柄は、品があって美しい。
「どういたしまして。よく似合っているよ」
うふふ、ありがとう。
西園寺は菊子の頭を優しく撫でた。
外は初秋を迎え、白・ピンク・濃い紫の秋桜が咲き乱れ、艶やかな桔梗、大輪の菊、そして目を奪う深紅の彼岸花が、花の庭を鮮やかに彩っている。
今もまだ夏の名残りを残す木々は、もうすぐ赤や黄色といった華やかな色に染まるだろう。そうして一年の最後を美しく彩れば、やがてはらりはらりと葉を落とし、真白き季節を迎えるのだ。
「……そろそろ、かな」
何がとは言わなかった。しかし口もとに刻んだ意味深な笑みは、何を物語っているのか十分に伝えた。
「菊子、留守番を頼んでいいかな?」
甘酒を飲み干して、杯を床に置いた。
いやよ、いや。今日は菊子の日なのでしょう? 蓮也はずっとそばにいて。
「すぐに戻るよ、蘇芳を迎えに行くだけだから」
いやよ……私も連れていって。
愛らしい懇願に、西園寺は微笑んだ。
「だめ。だって両手が塞がってしまうもの。すぐに戻るから。そうしたら、後の雛をみんなで祝おう。誰一人欠ける事なく、ね?」
宥めるように黒髪をすく。菊子はしぶしぶ納得してくれたようだ。
蓮也、すぐに……戻って来てね?
「もちろん」
人形師はそう言って楽しそうに微笑んだ。
自宅にいた俺の元に、会社から電話が入った。ここのところ、金がないと言っては俺に電話を入れる。いいかげん聞き飽きた。しかし製作に関して、素人の俺がわかるわけもなく、必要なのだと言われたら買ってやるしかない。
だがあまりにも金がかかるので、最近は出し渋っていたりもしていた。
なぜなら器材だけ買っていて、当のゲームソフトの開発はほとんど進行していなかった。
この状態では本当に言われるがまま器材を買い与えても、できるのかどうか不安にもなる。
最初の間は意気投合していた監督の伊東とも、最近ではぶつかることが珍しいことではなくなっていた。
「どうした?」
それでも現在新作RPGソフトの開発中だ。イメージキャラクターのイラストをつけるのも、作中に使われる曲の演奏者も、早々たる顔ぶれの連中ばかりだ。おかげで本当に金がかかっている。
「何? もう一度言って見ろ」
思わず自分の耳を疑う内容が聞かされた。
伊東が資材購入のための資金を持って、海外に逃げただと?
「馬鹿やろう……どうして誰も気づかないんだ!」
俺の金を……くそっ!
「とにかくそっちに行く!」
俺は通話を切って、キーとサイフだけを手にしてマンションを飛び出した。
伊東の野郎……人の金を何だと思っているんだ?
イライラしたままエレベーターで地下駐車場まで行く。愛車の前まで来ると、人影に気づいた。
「あ……!」
鳩羽色の長襦袢、山藍摺色の着物に小鹿色の羽織を着た人物は、涼しげな美貌をこちらに向けた。右目だけにかけた金色のフレームの片眼鏡に、記憶があった。
「あ……」
血の気が引いた。
なぜ……どうして……
「こんにちは。お久しぶり」
蘇芳を取り返しに来たんだ!
ちくしょう、渡すもんか!
「悪いけど、急いでんだ」
俺は車のドアを開けた。人形師は近くに来たが、ドアに手をかけることはなかった。
「約束は守らなかったね」
一歩近づく。俺はおびえるように乗り込んだ。
「また今度にしてくれ!」
俺はドアを閉めた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
蘇芳がいなくなれば、俺の人生おしまいだ。
部屋に蘇芳はあるが大丈夫。オートロックだし、俺の指紋がなきゃドアは開かない。
俺はエンジンをスタートさせると、逃げるようにアクセルを踏み込み発進させた。
バックミラーの中で、西園寺は立ちつくしてこちらを見ていた。
絶対に蘇芳は渡さないぞ……
誰にも渡すもんか!
会社までどう運転したのかわからない。
とにかく蘇芳を取られたくなくて、それだけで頭がいっぱいだった。
六本木のオフィスビルに入ると、社員がおろおろとしていた。
「何をやっている? 誰か伊東を捕まえられる奴はいないのか?」
「無茶ですよ……資金と共に消えたんで、てっきり伊東さんが使い込んだんだと思っていたんですけど、違ったんです。すみません」
ディレクターの高木が頭を下げた。
「どういうことなんだ?」
俺に睨まれると、何度もと頭を下げる。
「作曲家に支払ったギャラだったんです。てっきり五百万だと思っていたのが、ゼロが一個足りなくて、五千万だったんです」
「五千万だと! 何様だ!」
たかだか数曲書いただけで五千万だと? ふざけんな!
「相手は世界的に活躍していますからねぇ。で、伊東さんはアメリカのソフト会社からヘッドハンティングされて、引き抜かれたんですよ」
「はっ! 何がヘッドハンティングだ! こんな突然止めて、許されるとでも思っているのか?」
そんな自分勝手なことが許されるわけがない。やったことに対して責任を取ってもらわなきゃならないだろう?
「あの、社長……でも伊東さん、辞表は一ヵ月前に社長に提出しているって、木崎さんが言っているんです」
「俺は見ちゃいねぇ!」
「伊藤さん、前に言っていましたよ……器材が全然不足しているって……これじゃファースト・ファンタジーと同じくらいのものもできないって。でも社長、必要だって言っても器材買ってくれないじゃないですか。いいもの作るには妥協しちゃいけないってのが、伊藤さんの心情だったし、それでフェニックス辞めたってのに……」
「うるせぇ! 黙れ!」
あー、イライラする!
ちくしょう、どいつもこいつも使えねぇ!
「くそっ! 注文ばっかりは一人前な、役立たずどもが! まったく、どいつもこいつも死んじまえ!」
あぁ! 頭に来るぜ……!
バンッという音が響いた。俺はその光景に目を疑った。
「なっ!」
俺の目に写ったのは、真っ赤な飛沫。
丁度彼岸花の花弁のように、従業員の頭部が一斉に破裂して血飛沫をあげたのだ!
「ひっ!」
ばたばたと倒れていく従業員……その誰もが頭を破裂させて即死していた!
「あっ……あぁ……っ……」
信じられない、これは何かの冗談か?
「なぁ……おい……やめてくれよ……みんなで、お、おっ、俺を……かつごうってのかよ?」
濃密になっていく生臭さ。それに比例して不快な吐き気が襲う。
「冗談やめてくれよ……なぁ?」
膝がガタガタ震える。理性では受け入れられない現実を、本能ではとっくに理解していた。
全員死んでいる……
「!」
蘇芳だ……
俺がどいつもこいつも死んじまえと言ったから、蘇芳はみんなを殺したんだ……
「やめろよ……だれがそれを頼んだんだ? 蘇芳……みんなを生き返らせてくれよ」
だが頭を破裂させて、それで生き返るわけがない。
「お……俺のせいじゃねぇよ……俺がやったわけじゃねぇよ!」
「きゃっ!」
廊下で誰かとぶつかる。俺は謝ることすらせずに走った。
逃げよう。
とにかくどこかに逃げよう。
俺が犯人じゃねぇんだ。だってそうだろ? 頭破裂して死んでんだぜ?
ありえねぇって!
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