09 幻想夜話
スポットライトの眩しさに、目蓋の奥に小さな痛みを感じた。
ステージから客席に一礼をして、着席をする。すでに糸巻きの調整は済んでいるのだが、それでも無意識に触れてしまう。
師匠の音を無くして初めて舞台の上に立つ。
木田柳の名がこれまで以上に重い。胃の奥が震えて、今にも吐いてしまいそうな程の緊張感を持っていた。
目を閉じて深呼吸をする。そっと弦に指を這わせ、撥を持つ手に意識を集中する。
唇が震えていた。零斗は深呼吸をして、軽く唇を噛んだ。
『それでは木田柳零翔さんで、津軽じょんがら節です』
会場から割れんばかりの拍手が鳴る。零斗は目を閉じた。
タン、テン・テン・トテテン、テンテンテンテンテンテン……
演奏が始まった。この曲は鎮魂歌。城下は灰燼と帰し、城主の命は散り失われた。墓守の住職は、その死を嘆き悲しみ、 上河原(じょんかわら)に身を投げてしまう。それを知った村人が、御霊を供養するために唄ったというのが、津軽じょんがら節である。
零斗はこの春に亡くなった師匠のために弾いた。
乗り越えたくて乗り越えられずにいた高い壁。ただひたすらに苦しくて重荷となっていた、その圧倒的な存在感。
師匠亡き後も、いや、亡き後だからこそ、その壁は高くなった。弾けば弾くほど音に迷う。理想とする音が遠くなっていく。
そんな自分が嫌でたまらなくて、ただひたすら乗り越えたいと思っていた。
師匠の音の呪縛から解き放たれれば、何かが変わるような気がしていた。
けれどどうだ?
実際には何も変わらない。何一つ変わっていない。むしろ前以上に、自分が師匠の音を探している。師匠の演奏を誰よりも自分が求めている。
タンタンタン・タンタタンタタ・タンタタンタタ・タタタタンタンタタ…………
師匠ならどう弾いていたのだろう?
繊細でありながら強さを兼ね備えた師匠の音は、聞く者の心を一瞬で捉える力がある、そういう印象だったはずだ。
記憶がないのがもどかしい。
師匠はどう弾いていたのだろう?
どう表現した?
津軽三味線は即興性が高いため、演奏家も「二度と同じ演奏はできない」ということがよくある。
師匠もそうだった。それなのに、必ず拝聴者たちの心を鷲掴みにして、その旋律に引き込む、そうした演奏をしていたはずだ。
「っ!」
思い出せない!
どうしても、恋焦がれたあの音を思い出せない。
あぁ、なんて愚かなことをしたのだろう。これほどまでに囚われているというのに。これほどまでに愛しているというのに。
どうして忘れられればよかったと、そんな傲慢なことを一瞬でも思えたのだろうか?
零斗の演奏は遠くて叶わない師匠の音に近付き、いつかは追い抜くためにあった。だからこそ手を伸ばしても届かず、触れたくても触れられない、そんな演奏であり続けたのだ。
津軽三味線はよく人生の有様を映し出すという。
師匠のあの音は、生きてきた年月がかもし出す人生の音。
あれと同程度の技術が欲しいのなら、同じほどの時を重ねなければ、到達することは無利だというのに。今の自分に出来るのは、そうした焦りも葛藤も含めて、ただひたむきなほどに津軽三味線と向き合い、研ぎ澄まされた音を表現することだけが必要だったのだ。
その心を無くした自分の伴奏に、沙織が怒るのは無理もない。あれから沙織とは連絡を取っていなかった。このコンクールが終わったら謝りに行こうと思っていたが。
「っ!」
ピィンッ! と甲高い音を立てて、一の糸が切れた。反射的に顔を背けるが、切れた一の糸が、つっと鋭く撫でて離れる。当然演奏が止まった。会場は不穏なざわめきが支配し蔓延していく。
三味線は読んで字の如く三本の弦が使われる。中でも一の糸は絹糸を寄り合わせた糸のため、他の弦より切れやすい。他の二の糸と三の糸はナイロンのため、一の糸と比べると強度がまるきり違う。
零斗は切れた糸を見つめた。
ぷっつりと途切れた絹糸は、もう音を奏でることはできなくなっていた。
それはまるで今の零斗の心情と同じのように感じられた。
木田柳翔樂の名が重過ぎて、その重圧から逃れることばかりを模索していた自分は、ついには自分が目指すべき音楽の道を見失い、途方に暮れている。
『 もつけこの(愚か者め)。 いらねぇごとばし考えでらはんで、 そしたごとさなるんだや』
師匠の叱責が聞こえたような気がして、零斗は表情を歪めた。あぁ、なんて自分は愚かなのだろうと、そう思った。
会場がざわめき、関係者がステージに上がって零斗に駆け寄る。
「すぐに糸を張れますか?」
零斗は目を閉じて首を横に振った。今の自分では新しい三味線が用意されていたとしても、ろくな演奏ができない。
旋律だけは完璧でも、人の心に届くような音は響かせることができない。もしもそんな音を木田柳の弟子だからという理由で評価されたら、師匠の名に泥を塗ることになる。
こんな情けない演奏を評価されたくなかった。
「棄権します」
「え!」
零斗は椅子から立ち上がり、客席に向かって頭を下げた。そして弦の切れた津軽三味線を抱えたまま、足早にステージの奥へと向かう。
「木田柳さん!」
引き止める声に耳を貸さずに、歩調を速めた。口を開くことはできなかった。そのまま誰の声にも耳を貸さずに控え室に戻ると、堪えていた嗚咽が食いしばった奥歯の向こうからこぼれた。
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