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02 蘇芳

 春は豪華絢爛だ。
 色のない沈黙の季節は過ぎ去り、眩い宝石箱の季節が大地に広がる。木々は新緑の芽を紡ぎ、大地には柔らかな緑の絨毯が広がり、色とりどりの花が色を添える。野には野の花、庭には大輪の牡丹。桜が満開になれば、その美しさに圧倒され、息をするのさえ忘れてしまう。
 人里離れた山野に『 花車堂』という名の店があった。建物は木造二階建て、完全に和風の作りで、四季折々の花が咲き乱れる広大な庭を持つこの店は、どこか浮世離れしていたが、それでもその風情に合間って、それは見事に調和していた。
 花車堂は入口にその屋号を掲げてはいるが、それだけではなんの店なのかはわからない。
 しかし一度足を踏み入れたなら、それはたちまちに知れてしまう。
 入って正面にはいくつかの能面が睨つける。土間作りの右の壁は一面棚になっていて、そこにはビスクドールが何体も収められている。
 土間を上がりすぐ左、窓の下には日本人形が収められ、そしてビスクドールと向かい合う配置の壁一面には日本人形だけがずらりと収められていた。
 花車堂は主に日本人形の店だった。
 土間を上がれば囲炉裏があり、その近くには茶道具をしまう小さな台がある。天板には湯飲みがそのまま置けるし、玉露だけではなく、抹茶も飲めるように、一通りの茶道具は揃っている。その傍らには煙管のための、たばこ盆が一式揃っている。
 囲炉裏からやや離れた位置には作業台があり、ここで人形の修理をすることがあるのか、裁縫道具から人形の着物の余り生地が点在していた。
 その奥には引き戸があり、工房となっている。工房には花車堂の主人がいた。
 ふとした拍子にカラスの濡れ羽色の髪はさらりと揺れる。切れ長の目もとが涼しげに見える栗皮色の瞳は、今は真摯に真っ直ぐに手元の製作途中の人形に向けられている。右目にだけかけられた、金色のフレームの片眼鏡を外すことはない。
 真剣なその横顔は、不思議と視線を引き付けるものがある。凜としているのに、どことなく妖艶さを感じさせる。だが中性的なものではなく、間違いなく男性的な美しさがあった。
 着物の袖が作業の邪魔にならぬように、今はたすき掛けをして人形作りに没頭している。
 西園寺は花車堂の主人であると同時に、日本人形を主とした人形作家でもあった。
 作業はもうすでに中盤に入る。人形の最も大切とされる面相描きだ。失敗は決して許されない。眉毛は弓を描くように伸びやかに、髪の毛の生えぎわは雰囲気を与える際たるものだ。そして唇の紅が入ると、いよいよ人形は人形らしくなる。
 丁度紅をさしたところで、西園寺は顔をあげてため息をついた。
「ふぅ……」
 その出来具合に満足する。次は乾燥を待って、筋彫りを施す。髪の生え際に沿って髪の毛を植え込むための、溝を掘っていくのだ。髪はスガ糸と呼ばれる絹糸を黒く染めたものを使用し、筋彫りを施した溝に目打ちで丁寧に埋め込まれていく。そして最後にスガ糸をまとめて、人形の印象を決める髪結いをする。
 ここまでが人形の頭の部分だけの工程だ。この後は胴組みと呼ばれて、首から下を別に作っていく。
「ん?」
 西園寺は店舗奥の工房、そこの窓から外を眺める。
 外は桜の嵐が吹き乱れる。薄紅色の花弁の乱舞は、陶酔させるような力があった。
「……」
 何を思ったのか、西園寺は筆を置くと、慎重な手つきで人形の頭を置いた。立ち上がると、たすきを解いて、床に置き、店舗へと向かう。
「菊子」
 そのまままっすぐ歩き、西園寺は窓際に置かれた一体の 市松人形いちまにんぎょうを抱き上げた。
 江戸時代の役者、 佐野川市松さのかわいちまの似顔人形が京阪で流行り、そのころについた名称が市松人形だ。現在では東人形、市松人形、京人形を含めて、やまと人形と総称される。
 西園寺が慎重な手つきで抱き上げた人形は、一度眉の上で前髪を揃え、肩より上でばさりと切ったおかっぱの黒髪に、白地に菊の花の柄の入った着物を着ていて、まるで生きているのではないのかと思わせる程、精巧で精密な造りになっている。
「うん? 何かあるのかい?」
 西園寺の問いかけに菊子は答えない。
 当たり前だ、菊子は人形なのだから。しかし西園寺は慎重に優しく、そして丁寧な手つきで菊子の髪をすいた。
 それから窓の外を眺める。窓からは四季の花を愛でられる、広大な花の庭が一望できる。
 花の庭の奥にはもちろん複数の桜の木が、満開の見頃を迎えていた。
「そうだねぇ……散歩でもしようか」
 西園寺は菊子を大切そうに抱いたまま、土間に下ろしてある下駄に足を通した。歩けば下駄の軽やかな音が、和の風情を奏でる。
 格子戸を開ければ、先ほど窓から見つめていた時とは比べものにならない、圧倒的な色彩が花車堂の主人を歓迎した。
 晴天の青空の下、満開の桜は狂い咲き、まるで冬から切り取られたかのような、いくつもの小さな白い花弁をつけるユキヤナギが満開だ。丁寧に大切に育てられた牡丹は大輪を開かせ魅了し、可憐なスイセンが華やぎを与え、色とりどりのスハマソウが、冬から開放された喜びに小さな花をいくつも咲かせている。
 花車堂の名に恥じない、それは見事な花の庭は、いつ見ても美しさを損なわない。
「あぁ、きれいだ」
 生命力を感じさせるこの季節が、西園寺の一番の好みだった。
 いざ花の庭へ散策に向かおうとしたそのとき、西園寺は見慣れぬ人影を見た。それは花車堂へ向かうことはなく、そのまま花車堂の北西の森へと入って行く。
「おやおや?」
 北西に向かうと深い森へと繋がる。花車堂から西南に少し離れたところには、西園寺の住む自宅と茶室がある。
「……」
 西園寺は春の嵐に乱された、菊子の髪の毛を優しくすいてやりながら、正体不明の人物を追いかけ始めた。

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#現代 #シリアス #ミステリー #オカルト #ホラー

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