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07 ロード・オブ・ヘブン

 イヴァンの心に不安が生まれる。
 ここはロード・オブ・ヘブンだ。イヴァンの前任者も死亡したからこそ、イヴァンがここに呼ばれたのだ。
 一人になった途端にこんなことを考えるのは、この土地にやってきて初めて一人きりになったからか、それとも初めて敵に遭遇したからか。
 ただ怖かった。
 夜の闇はこんなに怖いものなのか?
 一歩歩くたびに砂利の音がする。細い小枝が靴の底で折れる音がする。この音を聞きつけ虫は鳴くのをやめた。エーレが見つけたかもしれない敵も、この音を聞いているのだろうか?
 この闇に息をひそめ、耳を澄まし、やり過ごそうとしているのか、それとも反撃をしようとしているのか?
「!」
 不意に枝が揺れた。小さな影が枝から枝へと伝い走り、闇にまぎれて消えていく。ネズミかリスのような小動物が、イヴァンに気付いて逃げだしたのだろう。
 イヴァンは知らず止めていた息を吐いた。
 夜だからこそ、五感が研ぎ澄まされ緊張感が走る。
 微かな物音も、頬に当たる風の感触も、そして森の空気に混じる微かな臭気にすら敏感になり、敏感になるあまりに緊張が膨れ上がる。
 慎重に一歩、また一歩と歩みを進める。ふと気になり振り返るが、エーレの姿は当然ない。
 本当にエーレは見たのだろうか?
 そして見たというのなら、何人いるのだろうか?
 一人での国境越えはまず不可能だ。必ず同行者がいる。ラハーラ連邦国とニドヒル独立国との国境線を示すフェンスと有刺鉄線を切る道具も必要だ。荷物を抱えて、簡単に越えられる場所ではない。
 そしてこの国境線上には自分たち国境警備隊がいる。それを知っている敵も当然のように武器を携えてくるだろう。
 そう考えたらイヴァンはたまらなく怖くなった。
 自分が向かう先には武器を構えた複数の男たちがいる。先にイヴァン一人が遭遇する可能性だって高いのだ。
 心臓が早鐘のように鳴った。口から心臓が出てくるわけがないとわかっていながらも、喉の奥に鼓動を感じてしまう。
 怖い、ただただ怖い。
 訓練ではこんな恐怖を感じたことはなかった。夜間の実践的訓練も何度もしてきたけれど、訓練と実践では大きく異なることがある。
 訓練は所詮訓練だ。闇に紛れて待ち構え、例え襲撃してこようとも、彼らは敵役を演じているだけであり、敵ではない。
 しかし今この先にいるのは紛れもない敵。
 エーレの車のライトに気付いたのなら、向こうも確実に銃を構え、排除しようとしているはずだ。
 自分が吐き出す呼吸の音すら耳障りに感じる。
「!」
 パキンと、足元で小枝が折れる音がした。それだけでもう悲鳴をあげそうな程に驚いてしまう。
 これが昼だったら、ここまでは怖くなかったのかもしれない。
 太陽の光は平等にすべてを照らす。こちらも見つかりやすくなるが、逆に敵も発見しやすい。ましてや複数の行動ともなると、発見も容易い。
 しかし夜の闇は平等にすべてを覆い隠す。互いに見つけにくくなるから、至近距離まで近づいて、はじめて気付く可能性もあった。
 そうなると互いに殺傷区域に入る。銃の引き金を引くだけで、人ひとりの命が容易く奪える状況になる。
 アサルトライフルを構えたまま、イヴァンは周囲を警戒した。ぐるりと見回す。物音はないか、声は? 人影は見えないだろうかと徹底的に闇を警戒する。
 エーレが今どこにいるのかはわからない。互いに小型の無線機は装着しているので、いつでも通信は可能だが、直前にエーレが警告したように敵の発見前に声を出すのは愚かしい。敵に自分の位置を教えるようなものだ。
「っ!」
 突風が木々を揺らす。ロード・オブ・ヘブン付近に自生する木々は、どれもみな細い。大木へと成長する前に、冬の雪の重さに負けて倒木することが多いからだ。それでも自然は次代へと生を繋ぐ。倒木した隣には、また新しい木々が芽吹き、小さな苗木は倒木のおかげで突風を免れて、しなやかに育っていく。やがてまた倒木することになっても、新しい木が育つ。
 そのためロード・オブ・ヘブンの樹木に大木はない。風景は山の中というよりも雑木林といった感じだ。大木がないため、身を隠すには匍匐で進むか、岩肌の地形を生かした場所に身をひそめるしかない。
「……!」
 匂いがする。煙草の匂いだ。
 近い! 敵は目と鼻の先だ!
 そう意識した途端に足が震えた。この先にいる。あるいは隣に?
 アサルトライフルの銃口を四方八方に向ける。がちがちと歯が鳴った。
 見える風景は夜の闇に抱かれたものが広がり、遠くまで見通すことはできない。すぐ近くであっても、判別できないくらいに夜の闇は深い。
 煙草の香りは風向きが変わったためか、急にしなくなった。それが更にイヴァンの中の恐怖を煽った。
 いることは間違いない。でもどこにいるのかわからない。
 自分の心臓の鼓動が、そして吐息がうるさい。そればかりが耳についてはなれない。
 どこだ、どこにいる? いったい何人がいる?
 緊張と恐怖がイヴァンの中で膨れ上がる。
「っ!」
 ガジャリ、岩場が崩れる音がした。イヴァンはその方向へ向けて引き金を引いてしまった!

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