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2022

少し気が早いようだが、
激動の1年を振り返ってみようと思う。

2022年は私の23年に於いて、最も激しく、最も早かった1年間であった。

私は服にまみれ、都会に踏みつけられ、泥水で喉を潤す日々を送った。

1月
私は23歳になった。
早速、会社を辞めることを上司に伝えた。

新卒入社した月には決心していたことだったが、恩返しをすると心に決め、1年間懸命に働いていたのだった。

昨年末に始めたTikTokの年内目標を1万人に設定し、達成するまでは毎日投稿することにした。

2月
夢への1歩を踏み出し始める。
「古着屋」という、これまで縁もゆかりもなかった業界に殴り込む訳だが、
販売員の経験も古着の知識もなかった私は、ただただ「気合いならあります。」と連呼し、履歴書を出して行った。

面接してもらった古着屋では、毎度「24時間365日働く覚悟があります。」と言った。
私の情熱を上手く表現するためには、その言葉しか無かった。

収入が減ることは目に見えていたため、
新宿のバーの夜勤を始めた。
現金手渡し完全歩合制のおかげで、
今後随分と助けられることになる。

3月
古着屋としての人生が始まった。

量販店に勤務し始めるが、これまでとの違いに驚きの連続だった。

給料は前職から5万減、福利厚生がない、営業時間内に休憩がない、座れない等、挙げればキリがないが、それらを全て「自分で選んだのだから。」と納得した。
そんな私を褒めてあげたい。
よくぞ愚痴を吐かなかった。

しかし。何よりも私を苦しめたのは、周囲の愚痴の多さである。
これまで私は「愚痴を言うなら変える。変える気がないなら言わない。」を信条としてきた。

彼らはなぜこんなにも不平不満を撒き散らすのだろう。

言霊を信じている私は、とにかく脳内に悪い言葉を留めないように、聞き流していた。

ただ自分の未来のみを見据え、集中することにした。

4月
11時〜21時は古着屋で勤務、休みの前日はバーの夜勤。
並行してTikTokを毎日投稿する生活を続ける。

大した知識もセンスも無かったため、とにかくいろんな服に触れるべく、休日はどこかしらの古着屋に行った。
しかしそれは、「勉強するため」というよりは、毎日溢れてくる知的好奇心を満たすための行動だった。

古着屋の給料から固定費を払い、残りは貯金。
バーの給料で服や食費を賄うようにしていたため、思ったよりも早いペースで貯金が進む。

前厄の影響か、身体のあちこちの調子を崩すことになる。
この月は扁桃腺炎を患った。

5月
コロナに感染する。
久々の体調不良に死ぬ思いをした。
喉が腫れ、飲み物、薬を飲むのにも苦労した。「神様が休めと言っている。」と自分を納得させた。

引き続き、激しい生活は続く。

6月
肩、腰の調子がおかしくなったが、
TikTokフォロワー1万人を達成した。

大学、前職で学んだことが大いに活きた結果であることは間違いない。
自分の人生だからこそ出来たアウトプットだと思っている。
思考の上に出た成果ほど素晴らしいものはない。

また、面白いことに、服や音楽と向き合う中で人生を考えることが増えた

人々が毎日纏う「服」に、なぜここまで惹き込まれたのか。
それはどんな背景を持ち、今どのように解釈されているのか。
そんなことを考えるうちに、気を病みそうになる日もあった。


7月
TikTokの調子も上がり続け、
激しい日々が報われるような思いがした。

これまでも約1ヶ月に1回会いに来てくれていた彼女が2年記念日を含め1週間ほど滞在してくれた。

古着屋に転職してから、
私は「感謝」をすることが非常に増えたが、
特に彼女への感謝はしてもしきれないほどある。

会社員ならまだしも(前の会社はそこそこいい会社だった)古着屋店員、しかも独立もしておらず、ファッションはほぼ初心者の自分の夢を応援し、これまでと変わらず接して応援してくれることがどれだけ有難いことか。
「彼女の応援に報いたい。」今の私のメンタルの強さの根幹は間違いなくこれである。

8月にPOP UPを開けることになり、
その準備も重なり激しさは増した。

8月
TikTok経由で出来た友人数人とPOP UPを開く。
初めて自分で集客し、服を揃え、買って頂くという経験をしたが、
あまりにも尊いものであったため、
帰宅後彼女と電話しながら号泣した。

夢が叶えばこの感動を毎日味わえると思うだけで活力になった。

寝れないからなんだ。
休みがないからなんだ。
給料が低いからなんだ。
全て自分の決断。
無いなら作ればいい。
稼げばいい。

これまでに感じたことのない覚悟を自分でも自覚するようになった。

9月
生活は変わらず激しかったが、
自分でも成長を実感出来ることが増えた。

そんなある日、最愛の祖母が倒れた。
つい数週間前に電話で話したばかりだった。
認知症が進んでいたが、私が転職したこと、夢を追っていることは覚えてくれていた。
私の成人式すら見ることが叶わなかった祖父のためにも、
祖母には私の夢が叶った瞬間、ひ孫を見せるからと長生きすることを約束したばかりだった。

倒れた日は彼女の誕生日の前日だった。
その数日前の敬老の日に電話しようかと思ったが、時間も遅かったためやめたところだった。

14年前祖父の危篤の場面に立ち会い、初めて人の死に対面したとき、
あまりの恐怖と悲しさに何の言葉も出ず、
私は祖父に何も伝えられないままお別れしたのだが、
再び大切な人に大切なことを伝えられないままお別れをしなければいけないのかと、涙が止まらなかった。

植物状態になってしまった祖母に会いに急遽帰省した。

私は、祖母が意識を取り戻した時に寂しくないように、大きな文字で手紙を書き、持っていった。

妹と弟と一緒に祖母の病室で時間を過ごし、
私のような後悔のないよう、2人にもゆっくりでいいからと声をかけさせた。

数日後、祖母は看護師の呼びかけに反応を示したらしい。

状況が好転しても半身麻痺は避けられないらしいが、私の手紙は誰かにでも読んで聞かせてほしい。

説によると、人間が死ぬ間際に最後まで機能するのは聴覚らしい。

ばあちゃんが喋れなくなっても、みんなが喋るから、それを笑って聞いてね。
ばあちゃんが多くを忘れてしまっても、
皆んながばあちゃんを覚えてるから安心してね。
孫は東京で闘うから、
ばあちゃんはゆっくりと、病気と闘っておくれ。

10月
彼女の誕生日と言うことで、
久方ぶりに「何もしない」日を作った。

私にとって休むということは「"休む"ということをする」ことなのだ。

彼女の誕生日を祝う中で、
誰かを大切にすること、
愛すること、
休むこと(笑)
の素晴らしさを知った。

自分の夢は知らぬ間に
応援してくれる人の夢にもなり、
より大きな責任や覚悟、なにより結果も必要になる。

これほど恵まれた環境にいるのだから、
私はなんとしても夢を叶えねばらなぬなと、
改めて気が引き締まる思いだった。

11月
心が折れそうになる日があった。

自分で決めた道とは言えど、
追い込むところまで追い込んでいたのだろう。
「限界突破」すると決め、日々を過ごしていたが、少しばかり休息が足りていなかったようだ。

大学時代までの友人や前職の同期が遊んでいたり、「社会人らしい」ことをしている姿を見ると、私の「学生らしい」日々が少し幼稚に見えたのだ。

しょうもない被害妄想であることは分かっていたし、一瞬の気の迷いであることも分かっていた。

私は1日だけ、自分を褒めてあげることにした。
そんな日にも彼女がいた。

愛というものに於ける「距離」の概念を定義したくなった。

12月
来年のレベルアップのために転職活動を始める。

今年1年間やってきたことがいかに評価されるのか、現在進行形のため、多くを書くことはできない。

しかし、私は自信を持っている。

古着屋店員でここまで自分を追い込み、向き合った人間はいない。
服を愛し、それに関連する文化を愛し、知り、取り入れようとした人間もいない。
これまで遭遇した壁で低いものは1つもなかった、このスピードで突破できる人間もいない。

それが事実であるかどうかは問題ではない。
私はそれほど努力した。
その結果、好きなものをもっと好きになり、
素晴らしい時間を過ごすことが出来た。

まとめ
1年を振り返る文章がこれほど簡潔になったのは、
日々があまりにも濃く、早く過ぎ去ったものだからだ。

よく学び、よく働き、よく考えた日々だった。

私はこの1年から学んだことがある。
それは「気合い」の正体と、「感謝」に関することだ。

気合いとは「精神力の強さ」と言い換えられるが、その正体は「不満」なのだ。
目指す姿に到達していない自分への「不満」
成果に対する「不満」
その不満が向上心を産み、
目指す姿に到達するまでのタイムラグ、困難を支える。

そして、私は生きているうちにこれほど他人に感謝する日々が来るとは思わなかった。
佐賀県で両親の元に生まれ、
周囲の人との関わりの中で前向きな性格に育まれ、
教育に投資してくれたおかげで勉強が好きになり、
そのおかげもあり京都、東京に行くきっかけが出来た。
これまでいい人に巡りあってきたからこそ、
"いい人"を見つける目が養われ、その目によって「夢」のきっかけを見逃さなかった。
部活や受験に本気で向き合ってきたから、
今も妥協せずに向き合えている。

朝起きて「服が好きだ」と思えること。
夢に向かって頑張れること。
それを応援してくれる人がいること。
全てに有難うと心の底から思える。

2023年も
好きな「服」で、好きな「人」を大切に出来る生活を手に入れるために、
人生をかけて努力するでしょう。

こんなに幸せな人生が待っていると思わなかった。
2022年、ありがとう。

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