アジールとコミュニティ:読書会を振り返る

皆さま、こんにちは。佐藤です。
先日、「社会学を学ぶ」読書会の最終回1回前がありました。次回はいよいよ最終回。奥村隆『社会学の歴史Ⅰ』全体を振り返る回になります。
今日は今までの読書会を振り返ってみたいと思います。

読書会をはじめたきっかけ

まずは読書会を始めたきっかけを振り返りたいと思います。

上記の記事でも書いたように、私が読書会を始めた動機は大きく分けて二つありました。
一つは、①「生きがい」としての学問の可能性を探る場所を作りたいというものです。専門の研究者ではない人たちと集まり、本を読む。研究を生業とする者にとって学問は食い扶持という実利的意味も持ちますが、そうでない人たちにとっての学問は「教養」として、人が充実して生きるための背骨になるだろう、と考えました。なお、詳述はしませんが、このような学問観は博士課程時代のテーマである作田啓一の学問観に由来しています。
もう一つは、②大学院生の進路問題です。文系の大学院生、とくに博士後期課程を終えた人たち(ポスト・ドクター=ポスドク)の中で、すぐに常勤になれる人は少ないです。読書会から、そのような状況を打開するための手がかりが何か得られないかな、と考えました。
活動を通じて、①について自分の中で理論的な課題が出てきました。それをあえて一言で表現するなら、コミュニティとアジールの問題です。

「コミュニティ」への違和感

「コミュニティ」という言葉は、現代日本社会で広く使用される言葉の一つだと思います。訳語としては「(地域などの)共同体」が当てられますが、とくに「地域おこし」などの文脈で、「居場所」とほぼ同義の言葉として、ポジティブな文脈で使われている印象を受けます。
しかし、読書会を通じて私が作りたかったのは、果たして「コミュニティ」だったのだろうかと振り返ったとき、違和感がありました。
先ほども簡単に触れましたが、私は博士課程時代、作田啓一という社会学者の研究をしていました。その作田は、フランスの哲学者H.ベルクソンから「閉じた社会-開いた社会」という対概念を学び、自身の思想の軸に据えていました。
「閉じた社会」とは、何らかの境界を持つ集団や共同体のことです。境界は物理的な境界だけでなく、何らかの資格や身分などによる、制度的な境界も意味しています。そして、そのような境界によって集団の成員としての資格を持たない他者を排除します。ベルクソンによると、閉じた社会は動物的な本能と知性によって形成・維持されます。
これに対し、「開いた社会」は、そのような境界を持たない集団だとされてます。ここで言われる「境界を持たない」という言葉について、私は、物理的なそれではなく社会的な意味のほうが重要だと思っています。つまり「開いた社会」は特別な資格なく入れる社会です。歴史的にみると、原始仏教や原始キリスト教のように、既存の宗教的共同体(閉じた社会)を批判する「開いた魂」を持った指導者によって形成されるのが、この「開いた社会」だとされています。
「開いた社会」はけっこう批判されがちな概念なのですが、個人的には気に入っています。特に「既存の共同体から逃れる人たちによって形成される」という点が気に入っています。ベルクソンを下敷きにすると、私が読書会で作りたいのはコミュニティではなく、「開いた社会」に近いと思います。

開いた社会とアジール


「開いた社会」に近い歴史学の概念として、「アジール」という言葉があります。「アジール(アサイラム)」とは、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアを指していて、国家権力などの統治権力の及ばない場所という意味です。歴史家の網野善彦による『無縁・公界・楽』で有名になりました。
もちろん「開いた社会」と「アジール」では、意味がちょっと異なります。「開いた社会」は何の境界もないですが、禁足地(=足を踏み入れてはいけない場所)である「聖域」などはむしろ厳密な境界があります。
ですが、オルドウィン・ヘンスラー『アジール: その歴史と諸形態』の訳者である舟木徹男氏によると、網野善彦の言う「アジール」の核心は「無縁・無主の原理」にあると言われています。

「無主」とは「有主」の対義語であり、「所有」の論理への対抗原理を意味する。つまり、「無縁」とは「所有」の論理とそれに基づく支配・被支配関係から「無縁」であるという、限定的な意味をもつ。

京都アカデメイア「伊藤正敏著、『アジールと国家』」

「所有」とは土地や財産などを自分のものにするということです。そして、この「所有」の論理が、人びとを「持つ者」と「持たざる者」に分け(その意味で「所有」は「排除」を伴います)、「支配-被支配」の関係を構築します。したがって、網野の言う「アジール」は、「所有」の論理に基づいた「排除」の論理が作用しない場所、平等で開かれた場だと言えるでしょう。

草野球のような読書会を

以上、おおざっぱに理論的な話をしてきましたけれども、読書会を通じて私が作りたかったのは、網野の言う「アジール」=平等で開かれた場なのだと改めて気づきました。
もちろん読書会で集まる人たちには読書経験や量などに差がありますし、私のような「専門家」がコーディネーターとしています。ですが、それらは「平等」という要素を排除しないとも感じています。
読書会は、草野球チームのようなものなのかもしれません。草野球チームは、実力や経験、年齢などはバラバラの人たちが、野球をしようと集まってできます。立ち上げにかかわる発起人はいても、発起人とメンバーの関係は平等です。目的を共有している点も読書会と草野球は似ています。草野球は「遊び」あるいは「趣味」ですが、だからこそ真剣にやるのだと思います。読書会も、そのようなものではないかと思います。
今後も、そのような場を作っていければと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?