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『ちょっとここらで 一休み』 第3回

  犀 牛 扇 子 与 誰 人
  行 者 盧 公 来 作 賓
  姓 名 議 論 法 堂 上
  恰 似 百 官 朝 紫 宸

 応永十六年(1409年)、一休さん16歳の時の詩である。この詩が出来た経緯は、一休さんの伝記『東海一休和尚年譜』に記されている。「師十六歳、結制日、聞秉払僧喜記氏族門閥、掩耳出堂、乃作二偈、呈慕哲翁、々曰、今叢林頽靡非一柱可支、三十年後子言必行、忍以待之、(後略)」何やら難しい文章だが少々お付き合い下さいませ。これを訳すると、「師(一休)16歳、結制の日(禅寺の行事)に、秉払の僧(説教をする僧)が喜んで氏族や門閥の話(家柄自慢)を記しているのを聞き、耳をふさいでお堂を飛び出した。そして、詩を二つ作り慕哲翁(一休の詩の師匠)に見せたところ、翁は言った、今の叢林(当時の禅宗社会)の頽廃は一人の人間で支えられるものではない、30年後に言ったことを実行しなさい、なので忍んで機会を待ちなさい(後略)」とでもなるだろうか。

 今回の詩は、その二つの内の一つである。ちなみに、もう一つは連載の初回に紹介した詩なのですが、皆さま憶えていらっしゃるでしょうか…(笑)30年後に、この詩を一休さんは自らの詩集『狂雲集』にのせることとなる。一休さんの生きた室町時代は、将軍や貴族といった非常に裕福な人たちも居れば、その日の食事も無いような貧しい人たちが街にあふれかえっていた。寺は本来はそういった格差とは無縁な社会のはずだった。しかし、現実は家柄を自慢するような僧が偉そうに説教をしようとしている。一休さんはそのことに対するやるせない想いを詩にしたためたのである。30年後、一休さんは腐敗止まない禅宗社会に向かって、この詩をぶつけたのである。

(詩の訳:仏性をあらわす犀牛の扇子は与えるまでもなく誰もが持っている(仏性:仏になるための性質)、六祖慧能は出身がいやしくとも五祖の客となった(慧能:中国の禅僧。ここでは、出身が貧しい慧能が師に見抜かれた、ということ)身分のことを議論するのは、朝廷に仕える人々にまかせて、法堂ですることではない)


画像: http://www.inocchi.net/blog/2154.html より

                           (戸谷 太一)

                         【2010.5.15 嵯峨野文化通信 第103号】

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