キレる私をやめたい_cut

【愛着・AC 克服記録】Part 6 自分に関係ない本かと思ったら

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「ながらで克服!」〜愛着障害・アダルトチルドレンを克服した中の人の話〜
#007 自分に関係ない本かと思ったら (Part 6 前半解説)

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#008 「今、ここにいる」法の本質 (Part 6 後半・Column 3解説)
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(2018.10.18 Twitter より推敲・再掲載)

(Twitter 掲載時注: 初っ端、余談ですが。ツイッターは便利ですね (今更)。特に、こうゆう「特定の目的の情報収集」に特化させて使うと、速度感が全然違う。ツイッターなかったら、あと3年は同じ状態だったかもしれない。)

6-1. 田房さんの本を読む前に ― キレる母親


(2018.10.04 の話)

画像1

(画像掲載許諾済。©田房永子/竹書房)

田房永子著「キレる私をやめたい ~夫をグーで殴る妻をやめるまで~ (竹書房)」(単行本 1080円)

僕の amazon のおすすめ欄に、ちらちらしていた本。
当初は別目的で買った、母のために。
母の、毒を抜くために。

 愛着障害・アダルトチルドレン (以下、AC) にとって、最重要な課題は母との関係だ。詳細は、また書くかもしれないけど、とりあえず現状を述べる。
 僕の実家には、母と祖母 (母方)、父、の3人が暮らしている (祖父は数年前に他界)。祖母もいい年で、少しぼけ始めている。ある程度自立歩行できるから、介助の部類に入るのかもしれないが、その祖母を自宅介助する母が、キレる。なかなか尋常じゃなく、キレる 。

 帰省した時、夕食を食べるまでは、良い。
 その後、祖母が居間のテーブルから立ち上がるところから、寝室で寝るまで、台風が襲来する。詳細な描写は避けますがね………母がキレるとこなんていくつになっても見たくないんですよ。
 まず、祖母の気持ちになってしまう。そりゃ、ボケて、物忘れも多いかもしれんし、わがまま言うかもしれんけどさ、そんなブチ切れなければ母親は耐えられないのだろうか?たぶん、そうなんだろう。
 それ以上に、「お母さん………近所迷惑だからやめて」って息子みんなが注意するレベルで母がキレるのは、辛い。この光景は、20年前、自分にもあった、それをライブ映像で見せつけられている、悪夢。

 僕の場合は、それでもブチ切れられる回数は少なかった。"優秀なAC" だったから。ただ明確に、2回、同じレベルでキレられたのを覚えている。理由は、"母に恥をかかせた" から。僕は虚弱な子で、耳鼻科とか歯科で嘔吐反射が起きる子だった。だから、歯医者のあの丸い鏡付きの棒が、口の中に入るだけで、えづきながら大泣きしていた。あと、大きな錠剤を飲めなかった。耳鼻科で処方された錠剤が飲めなくて、たくさんの水を飲み続けて、そのままテーブルで吐いてしまっていた。これらができなくて、大泣きしているときに、母親が畳み掛けるようにブチ切れていた。記憶にある "情緒的なやり取り" は、それくらいだ。

 まさに、このツイートを書いてる瞬間に思うのは、僕の家で情緒的コミュニケーションを取る時は、キレながら訴える、という手段しか知識がなかった。母親がキレてることに注意するときも、「いい加減やめろよ (口調は弱いが、心が限界)」。あー、辛い。


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6-2. 田房さんの本を読む ― 超実践的 AC 本


 こんな母の特効薬になるなら、最初はそんな気持ちだった。この「キレる私をやめたい」、序盤は、田房さんがささいなことでキレている描写が "コミカル" に描かれている。敢えて強調したのは、コミカルに思えるのは正常な家庭の人々で、僕はすぐ、「いや、これ AC 本やんけ」とわかった。
(ぜひ買ってご一読を!!!)

 僕の読む姿勢は真剣になる (仕事サボってスタバで読んでる)。序盤は壮絶、警察絡みにも発展 (この辺は本書の味わい。ぜひ読んでいただきたい)。田房さんは、ここからカウンセリングをたくさん試していく。
 親近感がすごい。やっと仲間に会えた気がした。
 数多の精神療法の中で、田房さんが出会ったのは「ゲシュタルト療法」だった。まぁ、この療法に関しては…………受ける人の相性によるんだろう (ノーコメント)。田房氏は、ゲシュタルト療法をきかっけに、快方に向かっていく。

 しかしこの本がすごいのは、ここから。「超絶的に」実践的だった。

① "心" と "状況" の概念 ― "感情" と "理性" について 

 心理セラピー等では基本の概念らしいが、人のコミュニケーションには "心" のコミュニケーションと、"状況" のコミュニケーションがある。"心" の方は感情的・情緒的・主観的なコミュニケーションで、この本では、"心" にアクセスする、と表現されていた。この、アクセスという表現は僕には直感的にわかりやすかった。
 では一方の "状況" は?これは、仕事・容姿・経歴・能力・結果・環境などなど、どちらかといえば物質的・客観的なコミュニケーションだ。人は初対面の段階では、この "状況" へのアクセスにより互いを理解し、段々と "心" にもアクセスする関係へと変化していく。いきなり "心" にアクセスするのは、土足で家に上がり込むようなもので、"状況" 的コミュニケーションは人間関係の潤滑油としてとても重要だ。

 しかし、この "状況" へのアクセスも過剰・慢性的になると、問題が生じてくる。本書では、その例が出されていた。

「会社をやめたいA君」の悩み相談。
「やめないほうがいいよ、再就職大変だ (反対)」
「やめちゃいなよ、こんな仕事もあるよ (賛成)」

 どちらも、仕事・人間関係 etc など、客観的な部分だけを見てA君の悩みに回答している。これが "状況" にアクセスしている状態。
 しかしA君の心では、"やめる" というのは実は本題ではなくて、上司との関係が "辛い" とか、仕事がうまくいかなくて "嫌だ" などの、相談している悩みのパッケージとは違った、もっと深い悩みがあるのかもしれない。
 どちらにアクセスするか?
 "状況" だけしか見ないか、"心・感情" の動きや状態にも丁寧に気を使ったコミュニケーションをするか?

 本書は AC を銘打ったものではないので書かれていないが、これがまさにAC の本質に楔を打ち込んでいる、と感じた。
 僕は、"心・感情" に着目したコミュニケーションをしたことが、ない。
 学歴・成績・成果・能力・容姿……。全ては、僕の表面をざらついた手で撫で回すような、"状況" 基準のコミュニケーションでしかなかった。


― ―(以下、読んだ直後の感想)― ―

 田房さんはここから、自身の経験をもとに描き進める。
 通常の社会では "状況" を介したやり取りが普通だ。でも、家族や親からまで "状況" にばかりアクセスされ続けると、自分自身も "心" を無視し始めるらしい。そして、無視され続けた "心" の傷は、無自覚のうちにとても蓄積されている、と。
 ここからは僕の考察。
 田房さんの場合は、"状況" に "ネガティブ" にアクセスされ続けたことで、キレやすい性格になった。学校の先生や母親から、容姿・能力などを非難するマウントを受け続けたから。一方で、学校や家族から "状況" には "ポジティブ" にアクセスされ続けたとしても、"心" へのアクセスが欠けていたらどうなるんだろう?
 前者は、いわゆるわかりやすい「毒親」といえる。一方で、後者の、「毒も無いが愛もない」、世間体的には良い親、本人たちも良い関係だと思っている家族の場合でも、子供の "心" は大切にケアされる経験をしない。僕はこの考え方が、『良い親』から愛着障害・アダルトチルドレンの子供ができてしまう原因だと思った。僕はこの時から、愛のない対応 = 塩対応になぞらえて、「塩親」という概念を提唱し始めた。
 「毒親」家庭出身者は、親への憎悪を自覚している。だから、アダルトチルドレンという概念に辿り着きやすい。しかし、「塩親」家庭出身者には、ほとんど憎悪がない。なぜなら、それぞれが自分にできる限りの、良いことしかしていないから。おそらくこうゆう親、とくに母親自身も、愛着障害・AC で、子どもを良い学校に入れる、習い事をさせる、学校の送り迎えをするとか、自分が知っている愛情表現をがんばる。
 子供は子供で、親の期待に沿おうとがんばる。でも、小さい頃から "心" にアクセスする情操教育を全く経験しないから、成長するにつれて社会との摩擦が生まれてくる。
 僕の場合は、小学校の頃は自分よりちょっと弱そうな子に悪口を言って優越感を得たり、マウントをとって支配を試みていた。でも高校くらいで、メタ視点から自分を客観視できるようになったことで、「自分がいかに卑劣で小さい人間なんだ」ということを自覚してしまった。そして、それまで経験したことのない自己否定・罪悪感に支配されて、180度真逆な、誰に対してもよそよそしく、表面的に "いい人" として接する人間になってしまった。
(再掲載時注: "両極端に変化しやすい"、"白黒判断になりやすい"。この性質が強迫的な完璧主義という性格や、双極性障害という疾患にダイレクトに繋がるのだろう。適切な関係を知らないから両極端になるしかなかったのだ)

 大学・大学院まで行かせてもらっておきながら、愛着障害・AC の原因は毒親だ、と主張するのはとても抵抗があったけど、真逆の理由でも愛着障害 ・AC になりうる可能性がみえたことで、僕の身勝手な納得は得られた。
 ただ、こう考えるとこれらの苦しみが家族性なものとして受け継がれていく理由もわかる。ただただ、悲しい。

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 僕は、この感想を振り返りながら、 "心" と "状況" の概念をもう少し掘り進めた。
 "心" と "状況"、もう少し平たく言えば「主体と客体」、「感情と理性」と変換できる。
 では感情とは?理性とは?さまざまな説明がなされるだろうが、僕は次のように定義すると最も普遍性があると思う。
感情: 「自分 → 他」の方向性を持った意志。(〇〇したい、〇〇と感じた。)
理性: 「他 → 自分」の方向性を持った意志、に "対処するための意志"。
(〇〇でなければならない、〇〇すべき)

 そして、AC 関連の知識がある人なら、薄々「あれか?」と気づくかもしれないが、この「感情」が過去に置き去りな状態、これが "インナーチャイルドが苦しんでいる" 状態なのでは?
 幼少期の心が傷ついている、解決されていない問題がある、という書き方が AC 本ではされるが、単純に過去の自分が傷ついた「出来事」にだけ意識を囚われてしまうと、そこから身動きが取れなくなる。ここに「感情」という視点を入れると、それぞれの出来事が起きた時に、「抹殺された自分の感情の死体」が累々と転がっていることに気づく。この「時間的な隔たり」が大事。


 ここでさらに、僕の中にわだかまっていた2つの疑問に気づいた。


1. AC 本の「インナーチャイルドを癒やしましょう」 → 誰が?
2. 幼少期に「感情」が置き去りなのは良いけど、じゃあその後の 「自分」 は一体何者なんだ?

 この疑問が、本書を読んで概念的に理解できた。
 「感情」を置き去りにして、「理性」だけが大人になった状態が AC で、この「分離した理性」にインナーチャイルドを癒やさせるのだ。
 そうすると、理解が進む。
 「感情」を置き去りにして、「理性」だけが成長してしまった人間、それが自分を今まで苦しめてきた「毒親・塩親」だ。自分の中には、「過去に取り残された感情 (子ども)」と、「感情を捨てて成長してきてしまった理性 (大人)」が共存していたのだ。


そうすれば、AC 克服論の根本的矛盾にも気づいてしまう。


毒親に子どもを癒せ…


それは、土台、無理な話だ。

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② 「意識」をコントロールする技術 ―「今、ここにいる」法

 この AC 治療の根本的矛盾は一回置いとくとして、本書で紹介されている "超絶実践的" 手法を書く。僕は衝撃を受けた。
 それは「今、ここにいる」ことを感じること。ん?前に出てきた気がする…。最初の梅岡氏の AC 本にも、読み返すと書いてあった。
 でもわからなかった。
 僕は田房氏の本で、その威力を知った。

 「今、ここにいる」法は簡単だ。平常時、心が凪の状態では無力だが、緊急時、心が嵐に罹災中の時に威力を発揮する。それは、リラックスした姿勢で、呼吸を落ち着かせながら、「視覚的に認識できるものの状態を唱え続ける」。これだけ。

「空が見えます、木が見えます、公園で子どもが遊んでいます…」

(Twitter 掲載時注: その後調べたところ、本書のゲシュタルト療法を行うセラピーに参加した人の感想で「形容詞使ったら否定されて嫌だった」みたいなコメントを見つけました。でも、なぜこの「今ここ」法使うかを考えれば、僕は納得。
名詞・動詞 = 比較的客観的 (感情的単語への連想が遅い)
形容詞 = 主観的性質強め (感情的単語につながりやすい)
 とにかく、"鎮静剤" のように、「感情」の動きを凪状態に近づけて落ち着かせたいのだから、それとは対称的な名詞・動詞で頭を満たそう、というわけだ)

実際に使ってみた。

母親をイメージする → この本送ったら怒るかな、てか怖いな、やだな……

ここで「今ここ」法 → コーヒーあります、窓ガラスあります、外のテラスでお客さんがコーヒー飲んでます…

 不思議と「無感情」な状態になる。もちろん、これは目の前に母がいるわけではなく、イメージで想起しただけだ。だから、克服の初期段階において、今現在直面している不快な刺激を対処するには、効力は薄いかもしれない。
 でも、克服が進み、ある程度対処技術が身についてくると、別の応用法が見えてくる。

 「インナーチャイルド癒やしの過程で感情が高ぶった時に、凪に戻る時に使える……!

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③  なぜ感情に嵐が来るのか?

 さらに田房さんは、「今、ここにいる」を感じる法 (=「今ここ」法) には、ただ感情を凪に戻す "即効性の鎮静剤" という力だけでなく、もっと本質的な力があることを考察していた。

そもそもなぜ感情に嵐が来るのか?

 田房さんの解釈は、「将来に対する、建設的でない不安や、単なる恐れ」とか、「過去の後悔・過去の自己の否定」に起因するのでは?、だった。そして、このどちらかに感情が支配されて、意識が未来や過去に飛んでいってしまうから、苦しみに苛まれるのではないか?
 田房さんの解釈は、「将来に対する、建設的でない不安や、単なる恐れ」とか、「過去の後悔・過去の自己の否定」に起因するのでは?、だった。そして、このどちらかに感情が支配されて、意識が未来や過去に飛んでいってしまうから、苦しみに苛まれるのではないか?

(現在) 風で声が出ない
→ 仕事の人に迷惑をかけてしまう "のではないか?" (未来の不安)
→ 昨日にケアを怠って遊んでしまた "自分が悪い" (過去の後悔)

 こうして、意識が飛んでしまえば、今まさにすべき体のケアに意識が向かない。だからこそ、「今ここ」法で意識を現在に取り戻すことで、凪に戻る。

 目からウロコだった。ホントかよ?と半信半疑、というより不信完疑の状態でやってみた。それでも感情が凪に戻る。世の中は、机上の空論よりも、実際に動くシステムが、真理だ。


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6-3. 田房さんから得たもの ― 解決策は自分でつくろう


 僕は絶望の中で田房氏さんの著書を読むことで、「今すぐ使える概念・技術」を発見することができた。また、それ以上に、愛着障害・AC の専門本には書かれていない、そもそも概念的に抜け落ちている "何か" が、そうでない普通の本にある可能性を知った。そして、こういった潜在的な AC 本に含まれたエッセンスを、自分なりに統合して行くことで、本当の解決に導けるのでは?というスタンスになれた。

 僕は理系の人間なので、どうしても抽象的な言葉には懐疑的になってしまう。その "優しくて耳聞こえの良い" 言葉の裏に隠された、諦めて折り合いましょう、という感情が透けて見える。
 この本でスタンスが変わるまでは僕も諦めていた。
 でも、ここからは納得するまで諦めない。

 もともとの発端となった愛着障害はよくわからないから、とりあえず置いとこう。今は、AC 解決に取り組もう。
 取り組むべきは、"過去に取り残された自分の感情" と、"心を忘れて毒親化した自分の理性"、この2つとしっかり対峙すること。

 方法はわかっていた。
 最初の AC 本にあった、「感情の開放」だ。


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Part 7 「ノートを使ってインナーチャイルドと対峙」

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