【メモ】最近読んだ本について(欲求とか)

2021.01.31

① 世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方

世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方
人生のモヤモヤから解放される自己理解メソッド
八木仁平 ¥1,540

この本は本屋で見かけて気になってはいたが、
目次を見て、ふーん…となって、そっと元の平積みに戻していた。

その後、Zoomでやり取りをする知人も読んだという話を聞き、
今度はもう少し真面目に立ち読みした(買ってはいない)。

(僕の私見として)簡単に言えば、この本で書かれていることは、
自分の中身を探索して、『やりたいこと』に磨き上げる方法」だ。
どこから見つけるのか?
> 自分の外側にある「未知のなにか」ではなく、
既に自分の中にあるものを吟味して、「やりたいことの原石」として再発見する。

どうやってやりたいことにするのか?
> 自分では「やりたいこと」と思っていた(勘違いしていた)ことを客観的に再検討したり、再発見した「やりたいことの原石」を多角的に見つめて、
「どうやったら一番生かせるか?」という形でやりたいことのアウトプットにする。
ex. 「野球が好き」が原石ならば、野球を「プレイする」のが好きなのか、「試合を見る」のが好きなのか、「野球という業界で成り立っているビジネス」に関心があるのか、など。

つまり、この本が意図するところは、
自分にとって知らないところからやりたいことを見つける、という途方も無い話ではなく。
自分を分析・コンサルティングして、活用の仕方を考える。

ということだ。
コンサルティングという表現はなかなか的を射ている気がする。
新しい仕事を探す若者(そもそもやりたいことがわからない人)向けではなく、小さな会社を経営していて、将来の事業の先行きに行き詰まっている人(自分の技術とか良さの活かし方を探している人)向け、と書いたらわかりやすいかもしれない。

僕が買わなかった理由として、「なんか…この著者にお金落とすのやだなぁ」と直感的に感じたのは否定しない(著者が嫌い、というよりはコンサル的な感じが気に食わなかった)。
だがそれ以上に、愛着障害・アダルトチルドレン克服の先の「やりたいこと探し」には適していないように感じたのが最大の理由だ

この本に適している人が活用すれば役立つと思うので、本屋で立ち読みしてみてください。


② 東大なんか入らなきゃよかった

東大なんか入らなきゃよかった
誰も教えてくれなかった不都合な話
池田渓 ¥1,500

この本は、「東大生の不都合な話」的なネット記事を見たときに見つけた。

著者が少し上の先輩らしい、ということや、内容にかなり親近感があったので即買いした。


この本には、中を見てきた人間にとっては「そうそう!それだよそれ!」という話がてんこ盛りだった。

「そんなの一部の人だけだろ?」とか、
「結局、東大生でもだめなやつはだめだね」とか。
そうゆう次元の問題じゃないのよ。

「東大に入ったら最高!」
「その先の人生も素晴らしい!」
というような夢物語を、『教育』と称して大多数の大人が子供に吹き込むこと。
小さいときから自分の頭で考えるような子供だったら、そうゆう思想を嫌悪して別の道を進むだろうし、あるいは自分の将来像を踏まえつつ、そのレールに乗っかるだろう。
しかし、(良い意味でも悪い意味でも)純粋な子供や、テストの点数は取れるけど将来どうするか?などの思考が欠如した状態の子供ほど、「素晴らしいとされるゴールを目指そう!」という思想に共鳴してしまう。


そうした子供の一部が、何かの間違いで東大に入ってしまうと…
まわりの大人は「やったやった」と大喜びだし、当の本人もそれが素晴らしいことなのだ、と勘違いしてしまう。
だけど、その子供や周囲の人間にとって大事だった「東大合格は素晴らしい」という価値観は、その子供が合格した時点で無意味なものになってしまう
しかも、自分の行動の指標となる価値観を失った子供、もとい青年は何をしてよいかわからず、人生において重要な時期を浪費することになる。

なぜなら、最も重要なはずである、「自分にとって大事な価値観を自分で掴み取り、自分の行動や将来の仕事をしっかり考える」という訓練を受けずに、他人から与えられた価値観を人生の原動力としてしまったから、そこから先を全く描けなくなってしまう。
(まぁ、僕のことなんですけど)

あと、この構図にはもう一つ問題があって。
それは、周囲の大人の「長期的視野の欠如」だ。

いい大学に入る、ということの意味を当の大人側・教師側が理解していなくて、
「入ったら我々の仕事は終わり。あとはその先に放り投げます」
とか
「入ったその先のことは、まぁ自分で考えな」
的なスタンスなもんだから、その構図・状態が問題ありまくりなことに気づかない。


どうして東大ではこうゆう問題が起きやすいかといえば…
まぁ基本的にはこの本に書いてあるわけだが。
僕の私見を書くと…
「大学で何かを勉強するために入ってきた」のか?
それとも、「大学に入りに来た」のか?
という目的意識の差だろう。

本の中では、東大は日本で最高の偏差値だから、ある一定以上の能力の日本人の高校生は、そのレベルを問わずここに入ってしまう。だから、能力の青天井的な世界(東大生から見ても天才的な人々)を見て挫折する、という具合に書かれていた。
著者の意図としては、東大の中でもピンからキリまでいる、それを「東大生」というひとくくりにされてしまう、という『集団としての東大生』に着目していた。

しかし、東大は日本で最高の偏差値と言う点は、『個人としての東大生』からも着目する必要があるだろう。

先程の目的意識にも通ずる話だが、
東大に入ることを『選択する』必要がない」のだ。
(これを読んで嫌な気持ちになる人がいたら申し訳ないのだが)
こうゆう偏差値教育って、階層になっていて、一番上の「点(東大)」から下っていけば、そこからは「点」ではなく「層」になっている。
だから、自分の能力を考えつつ「いくつかあるものから『選択する』」という経験ができる。
しかも、学部・学科単位で受験するようなところだったら、否が応でも「選択する」必要があるから、
自然と「ここか…ここか…ここかなぁ。ここは偏差値いいけど、ここはなんか面白そうだし…
こうゆう選択圧があることで、より良いものを選びたいとか、そもそもなんでここを受けるんだっけ?とかを考える「チャンス」もできる。
しかも、高校生などの「学校側から形成されたコミュニティ」に押し込まれていれば、自分から能動的に動かなくても一応クラスメイトというものがいて、どうしたもんかね、といった情報を話し合うこともできる。

しかし、東大を受ける場合、「選択する」という経験がかなり得づらい構図になっている。

まず、先程書いたような「周囲からの東大洗脳」があったりすると、とりあえず東大を受ける、という思考になってしまいやすい(おバカな子供がいる、という話)。
しかも、プランBってものができにくい仕組みになっている。
国公立は前期1校、落ちたら後期1校で、
「複数のプランから選択する」ではなく、「Yes or Noの選択」になってしまう。
さらに、東大って進学から1年半したあとで学部を選ぶシステムだから、
一般的な大学のように「何を専攻したいか?」という青写真も描きにくい。


これはあくまで僕という一人の人間の経験談で、多くの東大生はもっと自分で考えているんだと思います。(実際みんな賢いしな)
でも、ここに僕が書いたような構図は、一定頻度でエラーを生じる危険をはらんでいる。
東大の場合問題なのは、「このエラーを修復する装置=大人」もうまく機能しにくい、という点が挙げられる。
例えば、なんとなく歌がうまいから、歌手になります!といったら、まず反対される。スポーツにしたって、「そんなに甘くはないぞ」というかんじで、至るところに立ち止まって考えさせたり、静止してくれる大人がいる。
しかし、東大を受験する、といったときにそれを止める大人はなかなかいない。
なぜなら、① 仮に東大に受からなくても、その程度の実力があれば他の大学にも入れるから、② (芸能やスポーツと比べれば)門はそこまでせまくないから、③ なにより、「入ればその先もなんとかなる」と大人も漠然と思っているから


なんだか、長く書いてしまったが、こういった構造上の問題点についても書かれていたらもっとよかったなと感じた。

しかし、この本は「んで、じゃあどうすんの?」という最も重要な点についてはおざなりに書かれていた(僕はそう感じた)。
まぁ、そこが主題ではなく、これまで書かれてこなかった東大の負の側面を描くことが大事だから、それでいいのだろう。
この本の末尾にかかれていた3つの解決策は、どれも本質的な解決策とはいえない。東大を忘れる、合わない環境からは速攻で逃げる、他人と比べない、というのはどれも「あくまで対症療法」であり、その先どうするのか、というヒントを提示するものではない。
著者自身の経歴も踏まえると、模索中なのかな、と感じた。
模索中の僕が言えたことではないんですがね。


③ ずっとやりたかったこと、をやりなさい。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。
ジュリア・キャメロン (Julia Cameron) ¥1,158 (Kindle)

なんだか長い記事になっちゃったけど(東大のところでヒートアップしてしまった)、ホントはここを一番書きたかった。

この本も、先程述べたように、Zoomの知人が実践しているということで興味を持って買った。

先に書いておくと、
・僕はこの本をまだ読破していない(意図的に冒頭部分しか読んでいない)
・この本は「両手で長々と読む本」ではなく、「片手に持ちつつ内容を実践する本」である

特に、ダイエット本と同じで、この本は実践しないと内容を理解できないんだと思う。
なぜ冒頭しか読んでいないかというと、僕はまだモーニング・ページをいうものを少しずつ着手し始めている段階で、その先の部分を実践する時間的な余裕がないからだ。


僕のnoteを読んで愛着障害・アダルトチルドレンを克服しようとしている人にとっては、この本の内容はかなりしっくりくる部分があると思う。
でも、愛着障害やACに悩んでいる状態で、「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」という本は決して手に取らないだろう(僕も存在すら知らなかった)。

僕もまだ冒頭しか読んでいないので、モーニング・ページとアーティスト・デートについてだけ、愛着障害・AC克服との共通点・相違点や僕が思ったことを書いてみたい。

まず、この本の基本的な発想として、
「自分の中に子供のような創造的な心(内部のアーティスト)がいるから、その力を引き出そう」
ということだ。

以前の僕なら、「うわ、自己啓発じゃん、あっちいけ」と感じるわけだが。
いまとなってはこの構図は僕にとっては当たり前になってしまった。

要するに、人間って生き物には「思考する部分」と「感じる部分」がある。
脳科学的に言えば、それは左脳と右脳なのかもしれないけど、そこを細かく理解する必要はない。
iPhoneが動く仕組みを知らなくても、iPhoneを使うことはできるわけだし。

愛着障害・AC克服においては、
「思考する部分 = 理性」と「感じる部分 = 感情」がいて、理性が感情を抹殺するからメンタルがおかしなことになる。
・だから、ノートに書き出して(ノート療法)、自分で認識できなくなってしまった感情部分を引っ張り出してくる(半分蘇生)。
・その後、「自分はなんで生きているんだろう?」という哲学的問題に直面しつつ、「愛情ってこうゆう仕組みか」、「母性とか父性ってそうゆうものか」ってなことを、「頭」ではなく「心」で理解できた!(ペッシ風)になって、心が一時的にハイになって、落ち着いてくる(完全蘇生)。
という構図・プロセスになっていた。

しかし、この枠組は「ネガティブな状態をゼロ(虚無)に戻しつつ、そこからポジティブな方向に進んでいきましょう」がゴールであり、
じゃあポジティブな方向にはどう進んだらいいのか?
というところまでは提案できていなかった。

この本で提案されている「モーニング・ページ」というものは、まさしくノート療法である。
そういう書かれ方をしていないけど、構図を理解すれば根本的には同じものであるといえる(田房栄子さん漫画が、アンガーマネジメントではなく実際にはAC問題であるように)。

モーニング・ページとは、「毎朝起きたら『すぐ』」ノート3ページに色々書きなぐる、それだけ。
毎晩、ではなく起床直後というのは、考える部分(理性)がボケてる間に、感じていることをそのまま吐き出した方がいい、ということらしい。

僕の場合は、いきなり毎朝3ページは現実的に無理なので、まずは「朝起きたら、家を出るまでの数分間ノートを書く」という習慣をつけるという段階だ。
ノートが習慣化されたら、次は起床時間などを調整して分量を増やしていきたい。

一方の、「アーティスト・デート」。
こちらは、愛着障害・AC克服法においては、完全に欠如していた考え方だ。
そしてそれ故に、僕はノート療法(モーニング・ページ)というものを完全には活用しきれていなかったのかもしれない

なぜなら、僕にとってはノート療法とは、
愛着障害・AC克服の途中で、ネガティブな心を救い出すために『一時的に』必要なもので、克服したらわざわざ書く必要はないもの、だったから。
たしかに、ネガティブになった心を癒やすだけならば、コツさえ掴めば紙に書かなくてもできる。

しかし、「欲求を開発する」という点においては、「ノート療法 = モーニング・ページ」と「アーティスト・デート」を組み合わせることで、活路が開けるように感じている。
(感じているからこそ、これから実践しようとしている)

アーティスト・デートというものは、
端的に言えば「週に1回、思うがままに行動する時間を作りなさい」
ということだ。

コツとかやり方は本に書いてあるし、僕自身まだ実践に移せていないので、興味がある人は本を読んでください。

だが、振り返ってみると、あれはアーティスト・デートの一端だったな、と思うことがちらほらある。
例えば、僕は電車に乗ることや路線図を眺めることが大好きなのだが、
現在住んでいる街に引っ越したあと、周辺の路線の制覇にハマっていた時期があった。
これをしている間は、めちゃめちゃ楽しいのだ。
JR路線の天井に掲げられた無機質で均質な路線図だけだとわからない、きれいな景色や、「あ、ここはほんとに田舎なんだな」というリアルがそこにはあった。
一番前の車両で、隣の電車小僧と一緒になって進んでいく線路に目を奪われている時、確実に僕の中の「内なるアーティスト」には創造的な栄養が与えられていたのだろう。

そうゆう意味では、只今絶賛構成中のジョジョnote 第5部編を考えているときも、似たような気持ちになっている。
(めちゃくちゃ遅いのは、完成系にしてから出したいな、という完璧主義の悪癖から)

さて、こういった経験も踏まえた時。
「やりたいこと」を見つけだす上での活路はどこにあるのだろうか?
現在の僕の私見としては、
型が決まってしまった日常に変化を与えて、『内なるアーティスト = 感情さん』に『強烈な感動を与える』こと
だと思う。

すこし、青写真を描いてみよう。

「やりたいこと」は、大きく2つに分けられる。
一つは、「今現在」やりたいこと。
これは、実際に行動に移すもの。
前に書いた「欲求と願望」の表とかもこのへんの話。
一方で、世の中で大切とされているし、今まさに自分が探し求めているものは、
将来 = 未来で」やりたいこと。
これを探すのが難しい理由は、「今現在」の欲求をただ続けただけでは「将来やりたいこと」には結びつかないから。
「今現在の欲求」を「将来のやりたいこと」に昇華させるためには、
ある程度継続して能力的に成長して、価値を生み出すという「目標」が必要になるから。

でだ。
ないかしら目標ができると、人間「ちょっとがんばってみようかしら」という気になる。
では、どうしたら目標が作れるのか?
これまで自分が犯してしまった、「他人との比較や勝利」を基準にするのは、絶対に失敗するから目標にはしないほうがいい。

僕が「これかな?」と思っているものは、
「自分にとって『コレ』はいいものだ!」という価値観に基づく目標だ。
お笑いがかっこいいと思うから、自分もお笑いをやってみたい。
研究というものが素晴らしいと思うから、自分もそうしたい。
おいしい料理を作ることに、大きな意義を感じるからそうしたい。
などなど

心の底から「これはいいな!」というものをつかめたら、目標が作りやすくなる。


そうすると、大事なものは「何がいいものなのか?」という価値観に着目することになるだろう

価値観って、要するに「何がいいものかを価値判断する評価軸」と言い換えていいと思う
何が良くて、何がいまいちか。いろんなものごとについて混ざり合って形成されるのが、価値観。

だから、価値観を見直すってことは、
「何が良くて、何がいまいちか?」を再学習する、ということになるだろう。


このへんまで来ると、青写真から具体策になってきてるかんじですねぇ。

価値観の再学習は、① 理性側の再教育と、② 感情側の再教育
があると思う。

① 理性側の再教育ってのは、平たく言えば「頭でお勉強しなおす」ってこと。
こういうツールは、今の世の中なら至るところに転がっている。
社会的な価値観のアップデートもいろいろな方面でされているし、
どんな小説がいいのか?どんな漫画がいいのか?色んな人が解説してくれる。
個人的におすすめなのは、TBSラジオ。
僕は「ジェーン・スー生活は踊る」「荻上チキ -Session-」「アトロク」「爆笑問題カウボーイ」「空気階段の踊り場」のヘビーリスナーである。

一方で…
② 感情側の再教育
ここが、アーティスト・デートになるのだと思う。
自分の心で、リアルなものに触れて、「おお!これはいい!」と感動する。
感動って、文字通り心が動くことですから。

さっきも書いたけど、
型が決まってしまった日常に変化を与えて、『内なるアーティスト = 感情さん』に『強烈な感動を与える』こと
一番単純にここに効くには、「いままでやったことないこと・触れたことがない事柄」に積極的に、リアルに触れていくことなのだろう。

東大の本の著者が、ウェブのコラムで書かれていた「東大生で失敗する人は、行動力が足りない」という指摘も、ここに通じているのかもしれない。


で、で。

「やりたかったことを、やりなさい。」の本では、
モーニング・ページは「アウトプット」や「脳の排水」という風に表現されている。
たしかに、モーニング・ページの初期段階はノート療法と同じで、心や思考に溜まっているネガティブなものを吐き出すことでノートがいっぱいになるのかもしれない。
でも、そんなことを延々と続けていれば、ネガティブな話はネタ切れになって、ただただ徒労になっていくのだろう。

僕は、こうなった段階で、アーティスト・デートをすることで、
「感動した・新しいものに触れた」というネタができる。
ただ、週1でどっかに行くだけなら、すーっと忘れ去られてしまうけど、
毎日毎日モーニング・ページを続けてたら、新しいネタは格好の書く材料になるだろう。
おそらく、アーティスト・デートの翌日のモーニング・ページは、その内容でいっぱいになるのかな?
そうすると、週イチのおでかけが、単なる気晴らしではなく、「もっとおもしろいことに触れたい」というものに変わる。
さらに、それをノートに書く習慣が付けば、ひとつひとつの出来事の記憶の定着もよくなるだろう。
感動したことの記憶の定着がよくなること…
それって、つまり人に発信したくなることではなかろうか?

こういった、
・アウトプットとインプットの循環(心・脳内の循環)
・体験と記憶の循環(ネタの仕入れと発信するネタの循環)
・理性の再教育と感情の再教育の循環(頭と心の価値観の更新の循環)

こういった、「らせん状の循環」を生み出すことが、
結果的に「将来的=未来にやりたいこと」の形成につながる、
と期待している。


すごく長くなっちゃいましたが、ここで終わります。

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